ブログお引越し♪

ブログ、引っ越ししました♪

Heart-Lab

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メンタルケア心理士がうつ病再発したらシャレにならないでしょ?

今日、会社休みました(笑)

あ、理由はちゃんと体調不良です。

先月GW終わりから本当に具合悪い日が続き、辛くて苦しくて悲しくて、会社のトイレで泣く時もありました。

いくつかの病院を受診、漢方薬飲んだり針治療に行ったりして、先月の医療費、ハンパない。

どうでもいいものを衝動買いしてしまうことも多くて、その度に自分への言い訳として「会社であんなにガマンして働いているのだもの、このくらい買ってもいいよね?」と…

ホント、何やってるの?私。

そして、迷いに迷い、悩みに悩んで、ようやく「会社(派遣先)を辞める」決意をしたのが先月末。

必死で掴んでいた「執着」が見えた時、ゾッとしました。

それは、母親から刷り込まれた母親自身の価値観から来る言葉。

その言葉に縛られ続けた私は、その「執着」を「手放す」ことに決めたのでした。

ですが、一度壊れてしまった体は、そう簡単には治りませんね。

気分も、そんなにスッキリしないのが事実です。

だって、会社辞めたら、無職、無収入生活の危機にさらされるのですもん。

「終わり」は「始まり」です。

ストレスまみれの派遣先との別れ、終わりは、就活と不安の始まりですから。

先週末は調子が良くて、買い物行ったり妹とランチに行ったり、なんと網戸の貼り替えまでしちゃった私。

ちょこちょこ作業していた新しいホームページもいよいよ仕上げ段階に入り、昨夜は気持ち乗ってサクサク作業していたのですが。

今日のお弁当の下ごしらえもし、さあ、また一週間仕事だ~!と、はりきって寝たつもりが…

今朝、ベッドから起きたとたんにグルグル~と目が回り、転ぶ寸前。

めまいがひどくなったのは2週間くらい前からで、グルグルに加えてクラクラフラフラも始まっていました。

仕事に行かねば!

来月、家計が赤字になってしまう!

困る!電気代が!食費が!ガソリン代が!

仕事に行かねば!

会社に行かねば!

そう自分に言っている自分に気づいたのが、先週の水曜日でした。

そこで、思い出したのです。

うつ病になった時、やっぱ、こうやって、自分を追い込んでいたってこと。

頑張れ!頑張れ!頑張らなきゃいけない!会社を辞めちゃいけない!辞めたら次がない!会社休んだら金が入らない!

ははは。

笑えました。

何やってるの?私、って。

以前、まだメンタルケアの仕事を始めたばかりのころ、うつ病の男性のカウンセリングしたことがありました。

その男性がうつむきながら小さな声で語ってくれたのは、「子供のころ父親に、頑張らない人間はダメな人間だ、と言われたんです」って話でした。

私は、その時のその男性の言葉を思い出した。

あぁ、私も同じなんだ。

母親の言葉が「呪い」となり、いつまでも私を縛って放さない。

私は母親に、「アンタは自分の要求ばかりする!」と責められ続けたんですよ。

なので私は、いつのころからか、「自分の要求(欲求)」を相手に伝えることができなくなりました。

結果的にそれは、「ガマン」になります。

他人からしてみたら、「え?そんなこと、言えばいいのに」と思うようなことでも、私には言えない。

自分の要求(欲求)が、自分都合のワガママではないか?と、常に考えてしまう。

他の人はみんなできることなのに、私にはできないんだ。

だから悪いのは私なんだ、と思ってしまう。

仕事って、お金をもらうって、ガマンしたり努力したりが当たり前。

なのに私は、ガマンも努力もできないダメ人間だ。

協調性がなくて個人プレーばかりしていて、孤立気味。

そんな自分に追い打ちをかけるように、どんどん具合が悪くなっていきました。

普通に生活できる体なのに、これと言って病気ではないのに、どうしてこんなに具合が悪いんだろう?

緊張型頭痛で締め付けられるような頭の痛さと、吐き気、微熱。

思考は停止寸前だし、痛い頭を抱えて、先週、私は考えていました。

会社に来て仕事するって、こんなガマン大会みたいなこと?罰ゲームみたいなこと?…と。

仕事ができるかできないか?ではなく、椅子に座っていられるか倒れるか?の選択でした。

もうどうにもならない、このままでは吐く、倒れる、と覚悟を決めて早退を申し出たのは、就業時間30分前(笑)

どんだけバカなの?私(笑)

で、今朝も、出勤するかどうか迷い(いや、まともに歩けないのに出勤は無理だろ~:心の声)、とにかく耳鼻科に行くことを優先しました。

すると、自律神経失調症からのめまいとのこと。

が、薬局からの帰り道、「このくらいの具合の悪さじゃあ、会社、行けるかな?」と考えた自分がいたのです。

人間には「耐性」「恒常性」というものがあります。

少々具合が悪くても、しばらくして慣れてしまうこと(耐性)と、状態を保とうとすること(恒常性)が働き、いつもどこかどうか具合悪い状態で出勤するのが普通になっていた私。

なので、「このくらいなら、まだイケるな」と思ってしまった。
でも、さすがに今日は、家にいることを選びました。

(それも実は、派遣会社の営業マンに出勤を止められたので・泣)


ストレスって、個々に違います。

だから、他人の言う事をモノサシにせず、自分の体と相談する。

私、「もう限界です」で退社を決めたのではなく、「もう、とっくに限界突破してました」で退社ですから。

他人(親)をモノサシにすると、こういうことになるんですね。

派遣会社の営業マンも言ってました。

「会社って、入ってみないと分からないんですよね~」と。

入ってみて自分には合わないな、と思うことは、別に間違いじゃないってことですよね。

私、「メンタルケアの仕事をして誰かの役に立ちたい」「こんな私でも、私がした苦しみが誰かのためになるなら幸せだ」と、ずっと思ってきました。

けど今回、潜在意識の奥底、一番下の下にある「親の呪縛」を解かない限り、私のしてきた苦しみはいつまでも陽の目を見ないって、分かったのです。

私はメンタルケアの仕事をしていますが、こうして、自分自身が苦しむ日々を送る情けない奴です。

でも、私と同じように苦しんでいる人の役に立てるなら、今の自分のことを公表する。

普通に生活できるはずの体があるのに会社に行けないなんて、働けないなんて、こんな辛くて苦しい思いは、他の人にしてほしくない。
そして、ここでうつ病再発なんてことになったら、シャレにならんぞ、と自分に言いました。


仕事、会社、というより、他人と関わることには、ガマンや努力が必要だとは思います。

しかし、健康を害してまでか?と問えば、そこは「いいえ」でしょ?

今日の午後は、薬が効いているせいか、だいぶ楽になりました。

ですので、ブログを書く意欲も出ました。

メンタルケアの仕事は、活動名称も新たに、リスタートさせます。

これも全て、働ける自分の体があるからできること。

痛い思いを繰り返して学んだ、大切なことです。

「できる範囲でいい」「無理しない」ちゃんと繋がってる人がいるから

「自分を許す」とは、口で言うほど簡単ではないですね。

「許せない自分」が、常に見張っていますから。


以前の私は、毎日ブログを更新していました。

そのせいもあってか、アクセス数も自分的にはそこそこだったと思います。

ですが今は、一週間に一度更新できればいい方で、パソコンを開けない週末もあるくらいです。

会社での仕事も、以前は、依頼されたことを早く片付けてしまわないといけないとする焦りがひどく、常に追い立てられている感がありました。

それも今はほとんど消え、マイペースで居られるようになりました。



では、なぜ、ブログを毎日更新しようとしたのか?

なぜ、依頼された仕事を早く片付けようとしたのか?

私の場合は、「見捨てられ不安」が原因でした。

「相手の期待に応えないと見捨てられる」とする、幼少期に育ってしまった不安が、大人になった今もある。

それは「親の言う通りになる、いい子」でないとならなかった、悲しい子供の末路ですね。

でも最近、ホントに思うのです。

自分に軸があっていいんだ、と。

相手に軸を置くと、無理をしたりガマンをしたりして、ストレスになる。

だから、「マイペース」という自分のペースで動けばいい。


ブログの更新が毎日じゃなくても、罰金は取られません。

仕事もそう。

期限内に間に合わないなら間に合わないと伝えて、じゃあどうするか?をその時に考えてもらえばいい。

会社での私の立場は派遣社員ですし、1月に入ってようやく5ヶ月経った、まだなだ慣れない新人です。

先日、気づいたのですが、「急ぎの仕事」は、私のところには回ってこない、と。

客先に提出するような大事なデータは、ちゃんとベテラン社員が対応する。

派遣社員だから、ではなく、今の私にはできない仕事だと思いました。



このことがあって私は、とても気持ちが楽になったのです。

そっかぁ、私、期待されてないんだぁ~

「期待される」ことは嬉しいことでもありますが、私のような性分の人間には、不必要な「プレッシャー」になってしまいがち。

なのでブログも、書ける時に書くようにし、ネタがなかったり時間がなかったりする時にもプレッシャーに感じないようにしています。



大丈夫。

期待に応えなくても、見捨てられません。

そして、相手が自分の期待に応えないからと見捨てるような人間とは、関わらなくていいってことです。

無理して作った関係性なんて、続きませんから。


今の私は、週末しか更新しないブログでも読んでくれている人たちのために、こうして、自分の時間を使う。

それでいいと思います。

ちゃんと、繋がってる人たちはいますよね。

ありがたい、ありがたい。

それって話し合い?パートナー相手の独りよがりな要求

パートナー間の問題を相談される時に決まって私が言うことは、「二人でよく話し合ってください」なのですが。

話し合って解決できるならカウンセリングになんて来ないよ、と言わんばかりに、「もう何度も話し合ってきました」とか、「(相手が)話を聞いてくれないです」とか、言われます。

でもね、「じゃあ、どんな風に話し合いをしたのか?」を訊いてみると、「え?それって話し合いじゃないでしょ?」というケースが実に多い。

とある30代の女性は家事分担がきっかけで、パートナーの男性との関係性が悪くなったそうです。

そこで女性は、男性に話し合いを求めました。

でも、「君とはもう話をしたくない」と拒絶された。

え?なんてひどい男性なんだ、話し合いしたいと言ってるのに… 

でしょうか?

いやいや、実はこの男性の気持ちもわかるのです。

この女性、「話し合いを」と言っていたけれど、彼女が実際にしていたことは、パートナーを「責める」ことだった。

「話し合い」というのは、より良い未来のために、お互いの気持ちや事情を伝え合うコミュニケーションですよね?

なのに、彼女が「話し合い」だと言ってパートナーにしていたことは、「私ばかりが家事をしている!」といった、「クレーム」でした。

これじゃあ、「君とはもう話をしたくない」と言われても仕方ないでしょう。

彼女は「どうして家事をしてくれないの!?」とパートナーに質問します。

そこでパートナーはパートナーなりの答えを言う。

でも彼女は、その答えを受け入れようとしない。

なぜって、そりゃ、そうでしょ。

彼女はすでに、自分の中に答え(目的)を持っていて、それ以外の答えは答えとして扱わないんですもん。

彼女の目的は、家事を分担すること。

自分ばかりに家事をさせる、とパートナーからの謝罪も求めています。

相手を自分の思い通りにしようとする「話し合い」なんて、「話し合い」ではないと思いますが。

自分の要求ばかりを押し付ける行為は、いい大人のすることではないのでは?

「話し合い」が成功するか否か?は、お互いの気持ちを伝え合い、現実的な状況を理解し合って、良い方向にもっていくようができるかどうか?ですね。

人間には長所と短所の両方が同時に存在している

とある夫婦がついに離婚するかも?という話を聞きました。

子供もいないし少し前から別居していたから、間違いなく離婚するよね~、なんて噂話のネタにしてしまいましたが。

どうしてそうなったか?と考えると、お互いに、相手が思い通りにならないから、のようです。

また、とあるセラピストのブログとホームページを拝見する機会がありました。

内容に対しては、うーーーん、って感じでした。

だって、いいことばかり書いてあって、なんだか嘘くさいんですもん。


物事には、長所と短所の両方が同時に存在しています。

それは、絶対、です。

長所しかない、短所しかない、なんてもの、無いんですよ。

そして、その長所と短所は、全く同じものです。

それらをどの方向から見るか?によって、それを長所とするか、短所とするか、になります。

人間関係のトラブルを引き起こす原因で多いのは、「相手に期待すること」です。

でもそれは、相手の「長所だけしか認めない」とする、自分勝手な押し付けではないでしょうか?

相手を見るのと同時に、自分自身も見る。

そこには、短所だらけのダメ人間がいますか?

それとも、長所しかない、素晴らしい人間がいますか?

人と関わる時、相手のどこを見るか?評価するか?

自分をモノサシにして、自分が好きなところだけを見たい、自分の好きなところだけが存在する人がいい、なんて考えていると、誰ともうまくはいかないはず。

薬に副作用があるように、人間にも短所がある。

そして、人によって薬の効き方が違うように、その短所も、人によって評価は様々です。

相手に対して、その長所だけ欲しい、いいところだけで関わりたい、なんて考えていないかどうか?

片面からだけでなく、両面を見て、それがその人なんだ、と、まずは確認したい。

そのうえで、相手のいいところ(自分にとって都合のいいところ)を選んで付き合えばいいのです。

ただし、「これだけはどうしても受け入れられない」という部分は、あって当然。

ですので、「これだけは絶対嫌だ!」というものが無い相手に限りますが。

「いいところしかない人」なんて、この世にはいない。

それを知っていて人と関わると、ストレスはかなり減る気がしますよ~

人から必要とされない自分には価値は無い?

自分には価値があるとか無いとか、考えたことってありますか?

価値がない、と凹んだことって、ありますか?

セルフセラピーカード No.22 「無価値感」


生物が生きる喜びは「必要とされること」だと、何かで読んだことがあります。

確かに、「必要とされる」ことで味わう感覚は良いものですが、中毒性を含んでいる気がしませんか?


私は「必要とされる」ことが喜び、とまでは思っていませんでしたが、何かしらの「役に立ちたい」とは考えていました。

「役に立った」と感じた時は嬉しくて、心地良い「達成感」も同時に味わうことに。

だからなのか、「人の役に立てない自分はダメだ」とか、「人に必要とされない自分は価値がないのだ」とかが、頭のどこかに常に存在する。

そして、「必要とされよう」として、無理をしたりガマンをしたりしてしまう。

必要以上の自己アピールをしてしまう。

そういった感覚を持っている人は、意外に少なくないようです。


私がメンタルケアの仕事をスタートしたのも、きっと、そんな理由が頭の中にあったからではないか?と思います。

人に必要とされる自分になれば、私は自分のことが好きになれるのかもしれない、とか。

自分が楽しいとかの感覚ではなく、とにかく他人に軸を置き、自分の幸せを他人に委ねていたのでしょうね。


私は、ライフワークとしているメンタルケアの活動に関して、その活動名称を度々変えてきました。

でもそれは、お客さまに対してのベネフィット(お客さまの得になること)でした。

簡単に言うと、お客さまにそれが必要であり、それを提供したい、そうなってもらいたい、とする自分自身のテーマでもあったのだと思います。

しかし、それってちょっと違う、と違和感を感じ始めたのは今年のはじめあたりで。

誰かや自分に、そうなってほしい、そうなるべき、ではなく、私自身が何をしているか?という、その時に求めているもの(テーマ)ではない、安定した不変なものにしたい、と考えたのです。

それを提供すれば必要とされる、といった、「お客さまのニーズ」を軸にするのではなく、私自身がどうか?などを反映させた活動名称にしたい。

そういう名称にしないから何度も変えなきゃならなくなる、とも思っていました。


「役に立ちたい自分」や「必要とされたい自分」を軸にすることは、イコール、他人を軸にすることになります。

他人を軸にすれば、ブレて当然なのです。

ですから今回、「活動名称=私」になるようなものにしたいと、そう気づいた時から時間をかけて考えていました。

自分に価値があるとか無いとか、必要とされるとかされないとか、全く関係なく、「これが私」を活動名称にしようと。

こういう感覚で活動名称を考えたことがなかったため、決まるまでにはだいぶ時間がかかりましたが、ようやく先日、納得のいく名称を決めることができました。


「誰かのために」と動くこと、自分より他人を優先して与え続けること、それらはとかく「良い」とされ、自分のために動いたり自分を中心に考えたりすることは「悪い」とされがちです。

でも、「必要とされる喜び」を味わいたいが故に自分を犠牲にするのは、間違いだと思います。

自己犠牲を払う自分を必要としてくれるのは、そういう相手を「都合よく使いたい人」ではないでしょうか?

結果的に共依存になるだけの話です。

「必要とされたい」「役に立ちたい」の裏側に、そうしないと自分の価値を感じられない自分がいるなら、絶対にうまくいかない。

だってそれって、「邪念」(よこしまな考え)みたいなものだと、私は思っています。



毎日を普通に生きていたら、誰かに必要とされるされない、役に立つ立たないなど、考えることもないわけです。

自分に価値があろうとなかろうと、楽しいと思うことや笑うこと、は可能でしょ?

楽しいと思う事をして、楽しいと思えない事はしない、やめる。

幸せって、そういうシンプルな生き方が育てるような気がします。

自分がそうだと人もそうだと思ってしまうことが原因

「え?それって私だけだったのっ!?」と気づいてショック受けたことってありませんか?

私は先日、大きな気づきがありました。

それは、私の未来が私の過去の延長線上ではなくなったかのような、大事なターニングポイントにもなったことです。


私は、「人から自分がどう思われているか?」を気にする傾向です。

もちろん、ネガティブな意味で。

自意識過剰、と言えばそうなんでしょうけど、いわゆる「人の目が怖い」のでした。


実は先日、ここ最近のあまりにも酷い不眠を何とかしたくて、病院を受診したのです。

そこで自律神経失調症を軽減させるための漢方薬を処方してもらいました。

が、この漢方薬、朝昼晩の食前に飲むんですよね。

なので、会社でも飲まないとならない。

ですが私は、「漢方薬を飲むために給湯室に行く」ことをためらってしまうのでした。

それだけではないのです。

トイレに行くのも、考えてしまうんです。


それを先日、親友に話すと、「ダメだよ。体に必要なことなんだから、薬もトイレも遠慮しなくていいんだよ」と言われたのですが…

こういったことを電話で親友と話していて、私は自分の行動のルーツ、原因が分かったのでした。

私は、職場の人たちから「サボっている」と思われたくないのです。

デスクワーク、しかもパソコン作業が100%に近い私ですから、「席を立つ」ことがほとんどありません。

だからなのか、「席を立つ」ことに、ちょっとした抵抗を感じてしまう。

でも、この問題には、もっと深い場所に、この意識の理由があったのです。


親友は私のことを、よく周囲のことを「観察している」と言いました。

「観察」という言葉が自分自身を表現している言葉だとは、その時まで全く気づきもしなかったことで。

けど、その通りなのです。

私は、「人間ウオッチング」が好きだったのですもん。

電話で親友に、先日に会って食事した際の親友の服装を、靴からカバンまで全部言いました。

すると親友は、「えー!?そんなとこまで見てるの!?」と驚いていて。

…そうなんですよね。

私、けっこう見ちゃいます(笑)

というよりも、物事に対して「視覚を使う」ことが最も多いのではないでしょうか。


親友はバイオリンを習っていますが、発表会などのための暗譜は、「音」で覚えるそうです。

それに対して私は、ピアノや歌の暗譜は、頭で「楽譜をスキャンする」ようなスタイル。

そういった私の物事を「視覚で認識する」傾向が、「人もそうだ」と思い込んでいたこと=問題の原因だったことが分かったのです。


物事をよく見ている私は、「人もそうだから、私も人に見られている」と思っていた。

だから「人の目」を気にして、トイレに立つこともためらう状態だったのでした。

私にとって「人にどう思われるか?」は「人にどう見られているか?」であり、見られた結果として悪い評価をされることを恐れていたんですね。

でも親友は、言いました。

「物事を観察するのは緋呂子さんの特徴で、他の人はそんなことしないよ」って。

もちろん、なかには私のようなタイプもいるらしいのですが、そういうタイプはホントに少数なんだと。

そして、「緋呂子さんは人や物事に興味を持ってるけど、他の人はそこまで興味を持っていない」とも言われました。


私の親友は常に髪をキレイに巻いていますが、それも「自己満足」が理由なのだそうです。

巻いた髪を人からどう思われるか?ではなく、単に巻き髪が好きなのでしょう。


こんなことがあったことで私は、ようやく、大きな荷物を降ろすことができたようなスッキリ感を味わいました。

そして何より、「自分のモノサシと人のモノサシは違う」ことがよく分かりました。

自分が使っている言葉が標準語ではなくて方言だった、というのを知った時の衝撃?に近い感じ。

「え?それって、私だけだったのっ!?」って。


自分と他人は、同じではない。

なので、他人のモノサシで自分を測ることもしなくていい。

「人は人、自分は自分」

「それでいい」、のではなくて、「それが当たり前」、なのですね。