「悪口」や「愚痴」を言ってくる相手への対処法は?

直前の記事に書きましたが、人間関係のトラブルを避けたいなら、まずは、自分が「類友」を引き寄せないようにする。

人に悪口を言われたくないなら、自分が人の悪口を言わないことです。

ただ、自分自身が人の悪口や愚痴を言わないのは、自分の努力で何とかなるでしょう。

しかし、人の悪口や愚痴を言ってくる人はけっこういますから、トラブルになる前に対処が必要です。



これは私の過去の話です。

某派遣先に入ったところ、私の直属の上司である社員Aさんが、他の社員数名の悪口を言ってきました。

新しく入った派遣社員でその職場のことが何も分からないからいいと思ったのか、仕事そっちのけで職場の同僚たちの悪口三昧。

派遣社員という弱い立場であり、入ったばかりで慣れずにいる上に、輪をかけてストレスフルだった私。

私はその時、悩みに悩んで、勇気を振り絞って上司Aさんに言ったことがあるのです。

「同じ職場の人の悪口を言わないでもらえますか?」と。

でも、そんな訴えはまったく効果なく、Aさんの悪口は止まらない。

結局、その上司Aさんと関わるのが嫌で、そこの派遣先はすぐに辞めてしまいました。


こんな風に、職場の中など、共通の人間関係の中での悪口を聞かされるのは、けっこう辛いもの。

しかし私たちの多くは、こうして、人の悪口を言ったり言われたりするのが現実なんですよね。

これじゃあ、いくら「私は人の悪口を言わない」と頑張っても、ストレスが溜まります。

それに、自分が人の悪口を言わなくなると、人の悪口を聞くことも嫌になってくる。


では、こういう人たちに、どう対処したらいいのでしょうか?

これは、「自分のやり方」を模索すればいいと思います。

例えば私の友達Bさんは、誰かが誰かの悪口を言い始めると、少々強引にでも話を変えるようにするそうです。

相手が複数人なら、別の人と話をするようにするとか、2人きりの時なら、トイレに立つなどもするそうです。

私も、あの時は一生懸命に考えて「同じ職場の人の悪口を言わないでもらえますか?」と言ったはずなのに、効果がなかった。

じゃあ、これからはどうしたらいいのか?と考えた結果、私流のやり方を見つけました。


私は今後、もし私に人の悪口を言ってくる人がいたら、

「じゃあ、直接本人に言ったらどうですか?そんなに言いたいことがあるなら、直接本人に言うのがいいですよ?」

と言おうかと。



そして、こういうことは、「愚痴を言ってくる相手」に対しても考えることです。

私の友達Cさんは、「愚痴ばかり言ってくる人」には、最初から会わないようにしてるとのことでした。

電話で話したいと言われても、「ごめんね、最近ちょっと忙しくて」のように、うまく逃げるとのこと。

ただ、こうして「愚痴ばかり言ってくる人」と最初から分かっている場合は事前に対処ができますが、よく知らない人だったり、突然愚痴モードに入ってしまったらどうするか?

私は、自分も愚痴を言うし、職業柄なのか、愚痴は聞いてやるものだ、かのような気持ちがあります。

でもたいがい愚痴というのは、人の悪口が混ざっているものですから、けっこう厄介なのですよ。


なので私、これに対しても私流の対処方法を決めました。

作戦① 「ごめんね、私、プライベートだと守秘義務ないから、黙ってるって保証できないの。人に喋っちゃうかもしれないよ?良かったら有料だけどカウンセリングにする?」

作戦② 「そんなことばっかり言ってるからダメなんだよ!問題解決しようって努力しなよ!」みたいにダメ出し&説教をする。

この2つに「言いたいことがあるなら直接本人に言いなよ」を加え、「緋呂子さんには話したくない」と相手に思わせたら成功。


もちろん、仕事ではこういったことは絶対にありません。

だって、その時のクライアントさんの愚痴は、「問題解決のための現状説明」ですから。


「悪口」にも「愚痴」にも、自分流の対処方法でいいんです。

人と同じではなく、自分のキャラに合った方法を使ってください。


「悪口」や「愚痴」に付き合うと、ただ聞いていただけなのに「共犯」扱いされることもありますね。

私は過去の職場で、社員同士の悪口大会に同席していただけなのに、「緋呂子さんも悪口を言った」とされ、嫌な思いをしたことがありました。

その場にいただけで「共犯」扱いなんて冗談じゃありませんよ。

そうなると、自分の身は自分で守るしかないですから、「悪口や愚痴は受け付けない」という主義を貫くことが必要ですね。

広告

類友の法則。その相手は自分が引き寄せたもの?

「類は友を呼ぶ」

これは真実だと言えるでしょう。

私は自分が人間関係の問題に関わり、傷つく度に、思います。

その相手は自分自身が引き寄せたものなんだと。



例えば、日頃から不平不満を口にしては愚痴ってばかりいる人がいます。

こういう人の周りには、やはり同じように、不平不満を愚痴る人たちが集まります。

自分が傷ついたり不快な思いをした時は、つい被害者意識が強くなり、相手のことを責めたくなりがちですね。

でも、もしかしたら、その相手は、自分と「類友」ではないか?

と、考えてみたことはありますか?

相手の悪いところ、気に入らないところが、自分の中にはないか?

平気で相手の悪口を言っているけれど、実は自分も似たようなものじゃないのか?


人間の目は外の世界を見るためについていますから、自分以外のもの、形のある物理的なものはよく見えます。

でも、自分の内側、目に見えない心や意識、思考などは、見えない。

だから私たちは他人を使って、自分自身を見るようにできているのです。


目の前にいる他人は、自分自身の投影です。

ですから、「類友」として引き寄せられた、自分自身と同じもの。

この「類友」「引き寄せ」は、「自分自身を知るためのもの」として、私たちの前に現われる他人です。


損得勘定ばかりする人の周りには、やはり、損得勘定ばかりする人が集まります。

「損か、得か」で関わり合いますから、自分が「得」だと思うことしか動きませんので「損」だと思う事には協力しません。

他人を利用して得することばかり考える人の周りには、他人を利用して得することばかり考える人が集まり、互いに互いを利用し合う。

ですから、利用価値がないと思われる相手には、見向きもしないでしょう。

見栄っ張りの人の周りには、見栄っ張りの人が集まり、見栄の張り合いをして競います。

ネガティブなことばかり言う人の周りには、ネガティブなことばかり言う人が集まります。

ポジティブなことを言う人の周りには、ポジティブなことを言う人が集まるのですよ。


それらはすべて、「類は友を呼ぶ」「引き寄せ」です。

「人の振り見て我が振り直せ」ということわざがありますが、他人の欠点や失敗を笑ったり責めたりする前に、「そういう自分はどうなのか?」と、一度自分に意識を向けること。

そうすることで、他人にあるものが自分にもあると分かれば、悪口も言えなくなりますね。


自分が変われば周囲も変わるというのは、この「類友」と「引き寄せ」の影響なのですよ。

自分がポジティブで、笑顔でいれば、自然と周囲にそういう人たちが集まるでしょう。

他人を批判して攻撃する前に、笑ってバカにする前に、「そういう自分はどうなのよ?」と、自分を見るくせをつける。

これが、何よりの成長のもとではないでしょうか?


他人のせいにして自分を見ない人は、いつまで経っても成長しません。

同じ失敗を繰り返し、いつも同じようなことで嫌な思いをするわけです。

そして、それも他人のせいだと責め、自分を見ない。

その繰り返しを、いつまで続けますか?


「人は鏡」です。

「類は友を呼ぶ」「引き寄せ」で、私たちの目の前にいる他人は、自分が成長するための大切な人たちなのですね。



大失敗。催促メールで大恥をかいた話

穴があったら入りたい。

大失敗の話を書きますね。

もう、自虐ネタだと思われても仕方ないです。


先月、イベントでカードセラピーをした時のこと。

カードセラピーは500円でした。

あるお客さまのセッションを終えて支払いの時「1万円札しかない」と、そのお客さまは言いました。

でも私、その時、午前中にカードセラピーのフルセッションをしてお釣りを渡してしまっていたので、私も1万円札しか持っていなかったんです。

なので、お釣りがないことを伝えたのですが。

そのお客さま、とっても感じの良い女性で、「ぜひまた会いたい!」と思ってしまった私。

だから私、「近いうちに、お茶しませんか?」と誘いました。

すると相手も、「ぜひ!」ということになり……

その後、お茶する日程を決めたのですが……

結局、相手の急用のため、お茶には行けなかったのです。

で、そのままお互いに何も連絡しない状態が続き、私は一昨日、そのお客さまにカードセラピー料500円を催促するメールを送りました。



が。

これが失敗でした。

私はここ最近、自分を大切にしよう、価値がある自分を表現しよう、という気持ちが強くなっていたため、例え500円でもちゃんといただこう!と、メールしてしまったのです。

しかし、そのお客さまからの返信は、こうでした。

「先日のやりとりですが、私が10000円札しか持ちあわせていなかったところ、緋呂子さんが今回はお代は結構ですので、お茶でもいきましょう!と言ってくださり、ではその際私にごちそうさせてください…という流れでした」


ガーン。

実は、この「ごちそうさせてください」は覚えています。

でも私はその時、「ごちそうしてくれなくていいですよ。お金はその時にもらいますから」と言ったつもりでした。


先日私、ある知人からもらったメール返信を読み、自分が言ったことと食い違いがあることに気づいたのです。

そんなこと言ったっけ?と、まったく記憶にないことが相手からの返信には書かれていて、その時のやり取りの記憶が曖昧であると実感しました。

なので、そのお客さまにも、「もしかして、お金はいらないとか言ったのでしょうか?」と、メールをしたのですよ。

そしたらやっぱり、「お金はいらないって言った」という返信が来て。


私、これでも記憶力には自信があります。

でも、知人からのメールを読み、思ったことは、「お互いに記憶している部分が違う」ってことでした。

たぶん、知人の言ってることも真実だと思います。

嘘やいい加減なことを言うような人ではありませんから。

確かに私がそう言ったりやったりしたのでしょう。

ですが、私も自分の記憶には自信があり、知人の言動に関して嘘偽りを言ってるわけではない。



ここ1ヶ月くらい、「言った、言わない」が多いです。

発言への誤解や勘違いも。

これも水星逆行の影響かとは思いますが、それで片付けられる問題ではないですよね。

「お金はいらないと言われた」と思っているお客さまに対し、支払い催促するメールを送ってしまったことになり、私は青くなりました。

ですので、大変申し訳なかったと精一杯の謝罪を言葉にして、「お金は必要ありません」とメールしたのですが。


ここで思ったのは、お釣りを用意しておかなかったこともですが、その場で1万円札を両替し、9.500円お釣りを渡すべきだった、ということです。

この問題は、小銭を持っていなかったお客さまには責任はありません。

明らかに私の落ち度です。

前のお客さまにお釣りを出してしまったのなら、イベント会場に入る前に、また1万円札を両替すべきでした。


そして、「口約束」というものがいかに曖昧で、「記憶」も形にしておかないといけないと、痛い学びを得ました。

「言葉」というものは、目に見える形がなく、一瞬で流れてしまうものです。

「言った、言わない。聞いた、聞かない」などのトラブルは、「言葉」が目に見えないから起こることでもあります。

なので、必要に応じてスマホのボイスレコーダーを使おうとは思っているものの、その場になると忘れてしまって使えていない。

でも、後々こういったトラブルにならないためには、約束事や決め事は文章にするとか、メールにして記録を残すとかの努力が必要ですね。



もう、本当に今回は大失敗でした。

失礼な催促メールを送ってしまったお客さまには、本当に本当に申し訳なかったと、深く反省しています。

「厄病神」「トラブルメーカー」廃業届

昨日の投稿、タイトルにインパクトがあったせいなのか、アクセス数が多くて驚きました(笑)

昨日のブログネタになった「人間関係」の件ですが。

昨夜、キレイに解決し、衝撃の余韻は残ってはいるものの、ようやく前を向いて動き始めることができるかな?というところです。

そして、私にとって今回のトラブルは、とても大きくて大切な気づきを得た学びでもありました。

残念ながら結果的には、誰も傷つかないという円満な解決には至りませんでした。

ですが、問題に関わった人すべてがソウルメイトであって、個々に学びがあり、誰が悪かった、誰に責任がある、とかではないということ。



私は、自分が関わるトラブルは、すべて自分のせいだと、すべて自分が悪かったせいなのだと思い込む癖があります。

そのルーツは、母親との関係にありました。


我が家の母親は、自分を反省することをしない人です。

自分が嫌な思いをすると、それをすべて人のせいにし、人を責めます。

私は幼いころから、この母親に「厄病神」と罵られて育ち、「この家のトラブルは全部アンタが持ち込んでくる!」と怒鳴られたこともあります。

確かに私は、母親のお気に入りになれるような子供ではありませんでした。

母親は、自分に逆らわず、世間での自分の評判を上げるような、従順で優秀な子供を望んでいたわけです。

しかし私は、言う事は聞かない、口答えする、問題を起こして学校には呼びつけられる、と言った子供でしたから、母親が私を嫌っていても仕方なかったと思いますよ。


自分の思い通りにならない他人は、それが例え我が子であっても、嫌悪し、憎み、「厄病神」と罵る。

そんな母親と共に生きたせいか、何か問題が起こると私の頭の後ろで「アンタのせいで!」という声がするようになってしまったのです。

これこそ、「罪悪感」の種。



今回、自分が関わった人間関係のトラブルを終わらせようと、私は自分が悪かったせいだ、と、私だけが悪者になる形を選びました。

それを、問題の関係者のひとりにメールしたところ、その相手にこう言われたのです。

「緋呂子さんは、自分がトラブルメーカーだという自覚があるんでしょ?」と。

実際、その人へのメールには、「私がトラブルメーカーだから迷惑を掛けてしまった」と書きました。

でもそれは、本心で書いたものではなく、私的にへりくだった謙遜での表現でした。

けれどもその言葉を表面的にだけ掴み、「自分がトラブルメーカーだという自覚があるんでしょ?」という発言って……

私はそこで、自分の母親を思い出したのです。

あぁ、私はこうして、いつも自分で自分を悪者にしていたんだな……

そう気づいた。


今回私が関わった問題の発端は、ある友人が、共通の知り合い同士の中での、ある人への不満を愚痴ったことにあります。

私は、何もしないで陰口悪口言うのが嫌な性分だし、仕事に関わることだったので、その愚痴の対象となった人に直接話を聞き、自分なりに良い方向に行くよう動いたつもりでした。


黙っていれば。

あの時、黙っていさえすれば、声を上げなければ、愚痴だと聞き流していれば、こんなことにならなかった、とは思いますよ。

でも、私にはできませんでした。

その友人の言い分にも納得できたし、話し合いで解決できることではないか?と考えたから。

しかしこのことが結果的に私を「トラブルメーカー」という位置づけにしてしまった。

ただの愚痴、不満を、「問題」として「表面化させた」ことで、「トラブルメーカー」と、「私だけが悪い」になってしまったのでしょうね。


実はこういうことは、子供のころから数えきれないほど起こっていて、「冤罪」によって会社をクビになったこともあるくらいです。

おそらく、そういうカルマを背負って生まれてきたのかもしれない、と自分では思っています。


では、今回の件は、本当に私だけが悪く、本当に私はトラブルメーカーなのでしょうか?

私は、すべてを他人のせいにして陰口しか言わない、自ら解決に向けて動かない人は、卑怯者だと思います。


なので、自ら先頭切って動き、「迷惑な奴」「面倒臭い奴」とレッテルを貼られる……

いつもこうして、悲しい結果になるわけです。



でも。

私の失敗は。

私のダメなところは。

「不満」や「陰口」という「闇」にあったものを、暴露、表面化し、白日の下にさらしたことではない。

私が改善すべきことは、そうしたことで他人に責められて、自分もそうした自分を一緒になって責めること。

母親が、「アンタのせいで!」と私を責め、私も「アタシのせいで!」と自分を責めてきたこと。


私は「厄病神」でも「トラブルメーカー」でもない。

もう、自らその役割を買って出ることは、金輪際しません。

そんな役割を買って出たところで、誰も救わないし、自分自身を不幸にするだけです。


ただし、私も、反省すべき点がないわけではありません。

感情的になって動いたことも事実ですし、よく確認せずにフライングしたことも認めます。

だから、反省は反省として次に同じ失敗をしないようにして、自分を責めることはしないでいようと決めました。


その場所を去った私のことを、残った関係者で悪口言うなら、言ってくれてかまわない。

言いたいだけ言えばいいと思っています。

物事を人のせいにして自分を反省しない人には成長はなく、同じレベルの人を引き寄せて同じようなトラブルを繰り返すだけのことですから。

過去の自分がそうだったので、これは間違いないと言えます。

なので、私は、今回自分のしたことから目をそらさずに、自分が悪かったところは認め、反省し、次に同じ過ちを繰り返さないようにすることにしました。





問題も問題解決も、自分の中にあります。

見るべきは、見えている他人ではなく、見えていない自分自身なのですね。

私の犠牲の上で得した気分になっている奴が憎い。

今日は私自身のこと。

なので、ですます調ではなく、語尾は言い切りで。


セルフセラピーカード No.11 「犠牲」



私は、人間関係の構築が得意ではない。

それは、自分とも他人とも争いたくないからだ。

だから、問題が起こるとその場から逃げ去るが、逃げられないとなると、自己犠牲を選んでしまう。

とにかく、ゴタゴタしたくない。

丸く収めたい。

自分の方に火の粉が降ってくるのはごめんだ。

そう思って生きてきた。

しかし、毎日愛猫とばかり顔を突き合わせて生活するわけにもいかず、気が合う、合わないに関わらず、誰かどうかと関わっていかねばならないのが現実というもの。

なので、関わる人間は最小限にとどめ、最初から人とはむやみに関わらないというスタイルを選んできたのだ。

ところがここ最近、そういう生き方を変えなければいけないと言われてるかのように、最も苦手とする「人間関係の構築」を求められている。

人と関わるのは、仕事の時だけで十分だ。

あとは、信頼できる親友や家族がいればいい。

なのに、どうして、こう、試練を与える?

試練だと分かっているだけに、辛い。

現在、水星逆行中だけれども、どうやら今回の逆行は、私の人間関係・コミュニケーションスタイルを激しく揺さぶってきている気がする。

苦手なものに対峙させられるストレスによって、パワーが落ち、もうそろそろ正気が保てなくなるのではないか?という不安さえ発生。

解決はどこにあるのか?を模索してはいるものの、逆行中の水星に邪魔されているかのように、うまくいかないのだった。


私は、誰のことも傷つけず、誰からも傷つけられずに生きていきたい。

だから、相手に迎合し、逆らわず、媚びて、言いたいことがあっても言わず、自分がガマンすることでトラブルを回避しようとしてきた。

相手に異論を唱えればケンカになる。

ケンカとまではならなくても、相手は気分を害すだろうし、その場の雰囲気も悪くなるだろう。

私は、そういうのが嫌なんだ。

最も避けたいのは、異論を唱えたことによる、相手からの攻撃よ。

「責められている」と勘違いした相手が、攻撃によって身を守ることはよくあること。

その攻撃によるダメージを考えると、自分がガマンしたり犠牲になる方のダメージを選んできた…というわけだ。


しかし。

結局、ガマンという形で「犠牲になった自分」も、黙ってはいない。

「ガマンさせられた」「犠牲になった」と相手を憎み、恨み、「怒り」という形になって私の中で膨れ上がる。

攻撃されたくないし、ゴタゴタしたくないから、と、ガマンして犠牲になる方がマシだという自分と、主導権争いを始める。

「悪いのはあの人の方なのに、どうして私がガマンしなきゃいけないのよっ!?どうして私が損しなきゃいけないのよっ!?」

けれども私はそこで、「いやいや、私も悪いんだよ。むしろ、私の方が悪いんだよ」と、自分の中の「怒り」をなだめにかかる。

それはつまり、「お前は間違えてる。お前はここに居てはいけない」と、「自分の中の怒り」に言ってることと同じ。

「怒り」に居場所を与えないという、とても恐ろしい技なのだ。


こうして私は、「他人と争いたくない」「傷つけたくない、傷つけられたくない」と願うあまり、自分自身と激しく争い、心の自傷行為を繰り返してきた。


…… でも、もう、嫌だ。

こんなストレスからは、早く解放されたい。

怖いのは、こうして虐げられ続けた「怒り」が、ある時、予告なしで爆発すること。

「キレる」というやつだ。

それは、「怒り」という液体で満タンになったグラスが、表面張力でプルプルしているところへ、たった1滴、「イラッと」が落ちた時。

その「イラッと」がトリガーとなり、グラスの中の「怒り」が零れ出す。

私の人生は、これの繰り返しだった。

そして、そこまで必死で守ってきた相手との関係性も破壊され、お互いに嫌な思いをするという最悪の別れに繋がる。

そこでの損失の大きさもまた、ハンパない。



そもそも、何をそんなにガマンするんだ?

どの辺で自己犠牲を払うのか?

私は、相手に異論を唱えたり下手な自己主張をして、それに怒った相手から攻撃されることへの恐怖と、「かわいそう」だとか「頑張ってるから」だとかの「同情」が強い。

それに、例えば相手がお客さんの場合は、「この程度のサービスで金を取るのか!?」とか、クレームが来ることが怖いのだ。

自分自身と自分のサービスに自信がないから、いつでも弱気のアプローチになる。


ライフワークのメンタルケアワークだけでなく、ライスワークの派遣CADオペなどでも全く同じだった。

自分の描いた図面に自信がない。

設計士から文句言われたらどうしよう?

仕事ができない奴だと評価され、次の契約を更新してもらえなかったらどうしよう?

そんなことばかり考えてしまい、今年になって数か月働いた派遣先では、後遺症が残るほどの心身症を患ってしまった…

しかし、もう、そういう自分とはお別れしたい。

相手と争わないかわりに、相手を傷つけないかわりに、自分自身の中で争いが起こり、自分自身を傷つけ、その結果、体調を崩す、病気になる。

こんな生き方を、いつまで続けるのか?


私は、自分ばかりを悪者にし、他人を責めることができない。

自分がされて嫌なことを、他人にもしたくないのだ。

でも。

でも、だよ?

私だって、自分が大事なのだ。

ガマンして犠牲になって、私は、私がかわいそう。

私が犠牲になっていることなど知ろうともせず、私の犠牲の上で得した気分になっている奴が憎い。


こうして、浄化されずに溜まり続ける「不満」は「怒り」と化し、マイナスのエネルギーを社会に放出することになる。

そのマイナスのエネルギーは、出した場所に戻るのだから、私はいつまで経っても癒されない。

だから、もう、この生き方は終わりにする。

マイナスを生まない生き方にシフトする。

「緋呂子さんて、ズケズケと言いたいこと言うし、感情的だし、攻撃的だし、嫌な人だよね」

はい。

私は前から、そういう人なのよ。

それでいいの。

もう、開き直るわ。



「お客様は神様」ですか?

昨日の午前中は、女性ビジネスパーソンを対象にしたコミュニケーションセミナーで、久々に講師をさせていただきました。

エステ、化粧品関係、保険関係の女性たちに集まっていただいたのですが、みなさん、とってもしっかり参加されていた、という印象でしたね。

セミナーの内容は、マーケティングの基本知識、コミュニケーションスキルであるアサーションと一般的な心理学から、集客に必要な部分を抜粋しました。

私のセミナーや講座はいつもオリジナルの内容なので、終わってからのみなさんの感想が気になるところですが、昨日は皆さんから「楽しかった」と嬉しいお言葉を多数いただきました。

ありがとうございました。




私自身もまったく同じですが、みなさん、仕事=収入のため、ですよね。

ですから、収入アップのための努力をするわけです。

個人事業主さんたちは収入が努力次第というか、何もしないとお客さんをGETできませんから必死。

ただ、その必死さ、熱意が、ちょっとした問題やストレスを作ってしまうのも現実のようでした。


「お客様は神様です」

こんな言葉が世に出たせいなのか、自己犠牲を払ってお客様に尽くしてしまう売り手になってしまう…

でも、本当に、お客様って神様なんでしょうか?

「人間」が「人間」にサービス・商品を提供し、その対価をいただく。

このシンプルなシステムが商売ですよね。

なのに、「お客様は神様です」と言われてしまうと、売り手と買い手のパワーバランスみたいなのが変わってきてしまう気がするのです。

簡単に言うと、そこに「上下関係」が発生し、買い手側が上で偉い、売り手側が下、的な。



昨日、ある参加者さんが仰っていました。

「お客様からのメールに対し一刻も早く返信しなければと思うのだけど、家事や子育てに追われて時間が取れずにいて、気がつくと疲れ果てて寝てしまったりしては、返信が翌日になってしまうことがある」

そうなんですよね。

これは、私も経験があります。

私は親の介護が必要だった時期、メンタルケアの仕事はおろか、普通にお勤めに行くことさえできませんでした。


女性は家庭に縛られがちです。

仕事よりも家庭を優先しなければならないことは、ほとんどの女性たちが抱えていることだと思います。

なので、自分自身や、家族、家庭を後回しにしてまで、お客様にメールを返信しなくてもいいのではないでしょうか?

彼女はエステティシャンであり、化粧品販売もこなすBAさんですが、未就学児のママでもあります。

ですから、小さな子供がいる、家庭がある、という現実を、まずは「自分自身が受け入れて許す」ことが必要だと思うのです。

もちろん、中にはプロ根性が強く、家庭のことを仕事に持ち込みたくない女性もいるはず。

でも私たちは、なぜ仕事をするのか?

なぜ収入が必要か?お金が必要か?

それは、自分や家族が生きていくためですよね?

仕事をしたくて生きているのではありませんよね?


「お客様」か?「自分の生活」か?と悩んだ時には、自分にとって何が一番大切か?を考えれば、解決する問題は多いでしょう。



「お客様は神様」かもしれません。

だとしたら、自分自身を犠牲にしてまでお客様に尽くすことは、生贄を差し出すようなものだと私は思うのです。

「仕事」も「お客様」も、「代わり」「替え」があります。

でも、自分自身の体や家族は、唯一のもの。

どちらを優先すべきか?は、即答できるはずです。

楽しかった日曜日→イベントにお出掛け

「楽しかった日曜日」なんて、まるで小学生の作文のタイトルのようですね(笑)

私事ですが、昨日、甲府駅北口よっちゃばれ広場で開催された、「グリーンベジ甲府2018」というベジフェスに行ってきました。

妹と姪っ子を誘い、3人で出かけたわけですが。




アウトドアが嫌いな私は、こういった屋外でのフェスなんて絶対無縁な人だと思っていましたが、意外に意外に、とても楽しくて、思い出深い日になりましたよ~

ベジフェスなので、会場は、お肉を使わない食べ物でいっぱい。

まずは、姪っ子リクエストの金時豆シチューに始まり、タマゴは使っていないけど、言わなきゃ分からないってタマゴ風ラップサンドやらを食べ歩き。

キッシュやパンも買う~、コーヒー飲む~と、まぁ、お腹パンパン状態で会場をぐるぐる。

感動したのは、キジネイロさんってお店の手作りジャム!

そのジャムをつけて食べたくてパンを買ったくらい、魅力的なジャム。

困った。

ファンになってしまった(笑)

カラフルな麻紐でぐるぐる巻きしたコケ玉のグリーンも欲しかったのですが、これから寒くなる我が家地域では枯れてしまうかも?と思って買えませんでした。

そして、駅の構内で買った明野の大根!

さっそくおでんにして、妹親子と夕食でいただきましたよ。

妹や姪っ子も、それぞれ自分たちの欲しい食べ物を食べ、買い物し、ご満悦。

でもね、楽しかったのは、こうして美味しいものとの出会いだけではなかったのです。

そこに出店していた人たちと会話できたことも、「楽しい日曜日」のための大事なエレメントだと思っています。

みんな、自分の提供する商品やサービスを愛してるんだな~って感じ?

「美味しかったですよ」と声を掛けた時の反応や、その商品を作るまでのプロセスの説明は、みんな、楽しそうでしたから。

だからそこには、この人たちの「喜び」があるんだな…と、思ったわけです。

だって、嫌々やってる人がいないでしょ?


会社にお勤めに行ってると、嫌々働いていて、愚痴や文句ばかり言う人が多い。

「やらされてる感」が強いっていうか、まぁ、それって被害者意識ですけどね。

でも、昨日のベジフェスには、そんな被害者意識持ってる人は出店しないでしょうし。

人間、お金だけを求めると、嫌々仕事に通うことになりかねないと思います。

けど、「作る喜び」「与える喜び」が伝わってきた昨日の出展者さんたちは、お金だけを求めているんじゃないのでしょうね。

そういうの、「深いな」って思います。


私も正直、メンタルケアの仕事だけでは、食べていくことができません。

なので、ライスワークとしてお勤めに行くのですが。

「自分の好きなことをしてお金をもらう」ことで食べていけるようになれば、どんなに幸せだろうと思うのですよ。

でも今は、ライスワークとのダブルワークは卒業できません。

ですから、ダブルワークという形になっても、メンタルケアの仕事から得られる「喜び」を大切にしたいと思います。



「楽しい」は、自分自身だけでなく、他者も幸せにするのですね。

昨日1日で、そんなことを改めて痛感しました。

ああいうイベント、やみつきになりそうです(笑)