ひとつ終わり、ひとつ始まる。ひとつ手放し、ひとつ前に進む。

今年も今日で終わりですね。

1年間、お疲れ様でした、と、自分に言ってあげたいところです。

2018年の最終日の今朝、私は1年の集大成とも言えるコミットメントをしました。

ここ数か月の自分の身に起こったこと、それに対しての自分のレスポンスを考え、自分が手放さないとならないことがハッキリしたので。


私は幼少期に、親から、自分が望む形での愛情がもらえませんでした。

その影響で、大人になってから、親からもらえなかった愛情の代わりを周囲に求める傾向です。

でも、そういう生き方は正しくない、不毛な行為なのだと理解できるようになりました。

ですが、人として生まれ、生きて、人から愛されたい、好かれたい、認められたい、求められたい、という欲求が消えたわけではありません。

それゆえ、迷走しては消耗するといった繰り返しをしているのだと思います。


相手と時間を共有し、その中で相手を知り、それが分かり合えない関係だと分かった時、私は傷つきます。

どんなに慕っても自分が想うほど相手からは想われないのだと分かった時、生きている価値などないのではないか?とさえ考えたりします。

けれども、「個性」というものは全ての人に存在するもので、それによる「相性」の良し悪しもまた存在するのです。

例え親子であっても、価値観の合わない者同士は上手くいかない。


そして、悲しいのは、自分の価値観と違う相手を、否定し、批判し、疎外しようとすること。

人間関係のトラブルは、こんな感じの原因から始まる気がします。

「価値観の違いを、どうするか?」

これが人間関係の課題なのでしょうね。


私は今朝、今まで関わっていた相手としばらく距離を置く覚悟を決めました。

価値観の溝が埋められず、これ以上一緒にいると争って傷つけあう結果にもなりかねないと判断したからです。



今年も、様々な出会いがあり、様々な別れがありました。

「どうして私は、人のと関係や物事が長続きしないんだろう?」

以前はそう自問してばかりいましたが、その理由も今になれば分かります。

私にとって、出逢って関わる人は、みんな、その時の学びを共有するソウルメイト。

ですから、学びが終われば速やかに解散、といった流れになるのだと思うのです。


「現状維持は、実は下降」と教えてくれた人がいますが、その通りだと思う事が最近多くて。

「上昇」を求めて生きるためには、「変化」は必要不可欠なものではないでしょうか?

なので、2018年の最後の最後に、ひとつの執着を手放し、「現状維持」ではなく「一歩前へ進む」ことを決めたのでした。


ひとつ終われば、ひとつ始まるでしょう。

人間は、執着を手放すごとに前に進む。

手放したものが大きければ大きいほど、次に手に入るものは、手放したもの以上の大きさのものだと思います。


時間は流れています。

動いています。

ですから、その流れに逆らわず、自分も変化を受け入れて生きる。

辛いことも悲しいことも、楽しいことも嬉しいことも、全部、その変化の流れの中にあります。

自分と向き合い、流れを止めている執着、心の枷となっている縛りに気づき、ひとつひとつ手放し、枷を外していく。

来年もこの作業を続けていくことを自分自身にコミットメントした、2018年の最終日。



とにかくとにかく、1年間、一生懸命に生きた自分に、「お疲れ様」を。

みなさまも、よいお年をお迎えくださいませ。

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「家族が自分たちの生活を犠牲にして認知症の母親に関わっている」ことを伝える

先日、こんな本を買いました。

『人のために頑張りすぎて 疲れた時に読む本』

根本裕幸さんという心理カウンセラーの著書です。


この本を買った時の私は、ちょうど「お疲れメンタル」で、思わず引き寄せられるように手に取った感じでした。

でも、「え?けど私ってどっちかっていうと自己チューだし、人のために頑張りすぎて、って感じじゃないんだけど?」って思ったんですよ。

それでも、このタイトルに魅かれて買ったのは確か。

そして、買って帰ったその晩、一気に最後まで読みました。


買った時には「え?けど私ってどっちかっていうと自己チューだし、人のために頑張りすぎて、って感じじゃないんだけど?」 って思ったのに、いやいや、「え?まるで私?」って感じ(笑)

自分の姿が書かれている、自分が言いたいことが代弁されているようで驚きましたよ。

私は自分が抱えている問題を目の当たりにし、同時にその解決も手に入れた気がしたのです。

そこで、この本に書かれていたことを、実践してみたのでした。


私がしたのは、「自分の価値を言葉にして伝える」こと。

それは、以前からずっと自分を苦しめていた「いい顔して人のために動いて損をする」という部分を何とかしたかったから。

「犠牲になって被害者にならないようにしよう」とは思っていても、そのやり方はまだまだ足りていなかったと分かりました。



本を読んだ翌日、今度母親が入所することになった施設から電話があったのです。

施設の担当者から、年明け7日の週に受け入れたいと。

しかし、7日からは仕事や学校が始まってしまうため、一瞬、どうしようか?と考えて……

私はこう言いました。

「本当は12月中に移動する予定だったんですよね。

でも、今いる施設で早く対応してくれなかったので、年明けでも仕方ないですね。

ですが、年明けで7日以降ってことになると、仕事も学校も始まってしまいます。

妹に会社を休ませるわけにいきませんし、子供たちも学校が始まるので頼めない。

私は会社を休まないとなりませんが。

でも、7日だったら、子供たちが始業式だけで帰宅するので、午後からでしたら手伝ってもらえます」


母親の施設転居に関しては、本来ならば今月初旬には完了している予定でした。

しかし、想定外のトラブルで遅くなってしまった上に、新しい施設への入所は、年末年始はダメ、土日はダメ、とされ、家族が施設側に合わせなければならないことに。


私は、「家族だったら、病気の家族を優先すべき。病気や高齢の家族の面倒を看るべき」という考えが嫌いです。

家族だから、長女だから、と、自分自身の生活の全てを犠牲にしてまで親の介護をする気はありません。

でも、今だからこう言えるのあって、数年前までの私には、こうは言えませんでした。


こういってはなんですが、親の看護や介護を通じて、医療や介護の現場では「家族がすべきだ」とする傾向の部分が多いような気がしました。

では、家族がいない病気の高齢者はどうするのか?

家族が県外在住などで近くに住んでいない場合はどうするのか?

近くに住む家族がいる、介護や看護をする家族がいる、となると、行政を始め医療機関や介護施設は、家族が犠牲を払わなければならないような方向性に向けたがる。

ですから私は、「家族にも自分たちの生活がある」ことを言いたかったのです。

施設への受け入れが、年末年始はダメ、土日はダメ、ということになると、施設側の要求だけが優先されることになり、母親を転居させる側の家族は、仕事を休まないとなりません。

だからせめて、そういう事情が存在していることだけは伝えたかった。

家族側も、自分たちの生活を犠牲にして認知症の母親に関わっているのだと。



私はこの本を読み、今までの自分の概念を180°ひっくり返された気がしました。

なぜって、こうして自分の都合を相手に伝えることは、「言い訳」「余計なこと」のように思っていたからです。

「え?言っていいの?だって、そんなの言い訳じゃん?余計なことじゃないの?」

私のバーバル(言語)コミュニケーションは、「結論を伝える」ことを優先し、そこにおけるプロセスを省く傾向でした。

もともと話の構築が下手くそで、まとまりがなく、独りよがりの伝え方になってしまうと自覚がありましたから。

この本を読まなければおそらく、母親の転居先施設の担当者に「では、受け入れは7日の午後でお願いします」とだけ、言ったでしょう。

けれども、ただそれだけ言ったのでは、「家族が自分の生活を犠牲にして認知症の母親に関わっている」ことは伝わりませんよね?

それどころか、「あの家の人たちは、いつでもOK」なんて、まるで暇しているみたいに思われてしまうかも。




私は今まで公私ともに、少々無理なことも、かなり無理なことも、「いいよ。大丈夫」と安請け合いする傾向でした。

ですが、それをしてしまうと、多少なりとも無理している自分の事情は、相手には伝わらないのですね。

ですから、そこはホントのことを伝え、多少なりとも無理があることを相手に伝えるべきだと思います。


そして、こうして自分の事情を相手に伝えるようになると、「ご機嫌取り」や「偽善」「補償行為(罪悪感などから行う行為)」ですることが減ると思うのです。

世の中には、「人が当然やってくれるもの」と思っている人は山ほどいて、そういう人こそ、こちらの事情など考えていない、気づこうともしていない。

そんな人たちに、自分の大切な時間や労力を、どうして好き好んで与えますか?

そういう人たちに対して、「ご機嫌取り」や「偽善」、「補償行為」で行うから、「犠牲」になるのでは?


相手の要求を受け入れることで、自分が抱えるデメリット、リスクなどの事情を、ちゃんと相手に伝える。

周囲の人たちに伝える。

これって必要なことなのですね。

久々に良い本に出逢えました。

オススメです♪

「できる自分」を認めて、他人をあてにしたり期待をしない

私事ですが、少し前から、認知症の母親のことでけっこうゴタゴタしていました。

そのせいでメンタルも不安定になり、ちょっと辛かった日が続いたのですけど。

なんとか復活して今は絶好調。

ここに至るには、「自分のやり方(自分スタイル)」と、「できる自分」を思い出して認めた自分がいました。


2年間精神病院に入院していた母親が現在の施設に入所し、たった4ヶ月で退所する羽目になったこと。

それは、いったい私の何かいけなくてこうなったのか?

考えないわけにはいきませんでした。

同じ失敗は繰り返したくない。

だから、ちゃんと自分と向き合って答えを見つけたかった。

そこで、気づいたのです。

「辛いことは自分だけで抱えずに人を頼ろう」と、自分自身に言い聞かせてきたのですが、それがいつの間にか、「辛いことは自分だけで抱えずに人を頼らないといけない」とする「縛り」になっていたことに。


元々の私は、「人を頼らない」性分です。

人を頼れない状態で生きてきた、とも言えるでしょう。

人やネットから知恵を借りることはあっても、手を貸してもらえることはない。

特に家庭の中では、人間相手でもペット相手でも、「労働力が自分しかない」といった状態で生きてきました。


私は、そうやって「ひとりで対処してきた自分」を思い出しました。

そして同時に「ひとりで対処できた自分」の存在も。

……そうだった。

私、できるんだった。

ちゃんとひとりで結果が出せるんだった。

なのに、何を甘えたこと言ってたんだろ?


さらに気づいたことは……

私にとって「人を頼る」という目的が、いつしか「人をあてにする」になり、その結果「(その相手に)期待する」になっていたことでした。


人をあてにしたり期待したりすれば、その通りにならなかった時に、ガッカリ感や怒りが発生するでしょう。

いつも自分ひとりで物事に取り組んできた私には、「誰も助けてくれない。自分だけで対処しないとならない」といったプレッシャーや孤独感はありました。

しかし、誰も助けてくれないのが当たり前だという諦め感があったためか、人をあてにする、期待するなどの結果として起こる、ガッカリ感や怒りは無かったと思います。



今日このブログで伝えたいことは、「人を頼らずに何でもひとりで対処しろ」ではありません。

人を頼らなくても「できる自分」を認めて、「自信を持つ」こと。

そして、「自立」した人間は、人を頼りながらも、「あてにしない」「期待しない」こと、です。



人にはそれぞれ「自分のやり方」というものがありますから、ひとり仕事の方が向いている人が他人と作業しようとすると、問題が起こりがちです。

ですから、人を頼らずに自分ひとりで頑張る方がいいことと、人を頼って助けてもらいながら頑張る方がいいことと、使い分けたらいいと思います。

それに、「人をあてにする」「人に期待する」は、すでに「依存」の域。

物事には主体性を持って取り組み、それぞれの役割の責任を負うことを考えて行動できたらいいですね。


大丈夫。

ちゃんとひとりでも、できるから。

そして、誰かと一緒の時には、あてにしない。期待しない。

私の中の愛すべき「怠け者ちゃん」

私事ですが、先週あたりから、自律神経がだいぶ落ち着いてきたことを感じています。

晩秋から冬に入り、気温が下がったことも理由かと思うのですが、やはり、数々抱えていたストレスが少しずつ減っていったことが、一番の理由でしょうね。


今朝、改めて思いました。

私は、「休む」ことが苦手だと。


「休む」の代表である「睡眠」の質が悪く、「眠れていない」ことが全ての体調不良の源のようです。

先週か、先々週か、夕飯を食べてすぐに寝てしまったことがありました。

そして、夜中2時くらいに起きて、また寝て、結局、翌日の昼すぎまで寝てしまったのですが、この後、体調がすこぶる良いことに気づいた私。



私は俗に言う「ロングスリーパー」です。

1日9時間以上は寝ます。

ところが、メンタルにダメージを受けると、眠れなくなってしまう。

その結果、自律神経系をやられて調子が悪くなる。


これは、そうなる原因が自分で分かっているので、常に自分の課題にもなっていることです。

原因は、「働かざる者食うべからず」とする、我が家の親たちの言葉の「呪縛」。

言葉を理解できるようになったころから、繰り返し繰り返し言われ続け、刷り込まれた、「親たちの価値観」でした。

それが私を縛り、苦しめている。



今朝もふと思ったのです。

「仕事していないからって、こんな時間まで寝てたらダメだよね」って。

一昨日の木曜日は地域の可燃ゴミ収集日でしたが、私は10時近くまで寝てしまい、ゴミ出しに間に合いませんでした。

その時の罪悪感ったら。

私ってどんだけダメ人間なのよ?と、玄関に置きっぱなしにしたゴミ袋を見て大反省。



「仕事に行っても行かなくても、朝は早く起きなきゃ!」

そう思うのです。

「でないと、体内時計が狂って昼夜逆転生活になっちゃうし、仕事に行き始めたら大変だもの」って。


「朝遅くまで寝ている」=「だらしない生活」といった意識が、「明日こそちゃんと起きなきゃ!」というプレッシャーになる。

が、翌朝は目覚まし時計を止めて二度寝してしまい、やっぱり9時くらいまで寝てしまうのでした。



今朝、そんなことを考えていたら、頭の中に、「黒い点」が見えたのです。

(実際に目で見たのではなく、イメージワークの中で、です)

その黒い点をズームしてよくよく見ると、柱のようなものの陰でこちらを見ながら涙目でブルブル震えている、全身真っ黒の二頭身の子でした(笑)

その黒い子が言うんですよ。

「怒らないで。怠けてるって、怒らないで」って。


……あ。

これだ。

この子が、今、私が救うべき「自分自身」なんだ。

そう直感しました。


この黒い子のお名前は、「怠け者ちゃん」です。

今朝も9時過ぎまで寝てしまったので、この子が「怒らないで」と懇願している。

……そうだった。

私は自分に、「働かざる者食うべからず」とする親の価値観で生きることを強いてきた。

だから、「怠け者ちゃん」が生まれた。


寝てばかりいる、休んでばかりいる、ダメな自分をイメージの中で形にしたものが、「怠け者ちゃん」なのです。

私は自分自身に、「休む」ことを許可していない。

「休む」ことは「怠ける」ことだと思っているから。


私たちにとって「睡眠」は必要なものであり、「休む」という行為も大切なものだと、頭では分かっているのです。

でも、頭では分かっていても、心で許していない。

理解はできていても、許可はできていない。



「何もしない日」「ただ寝るだけの日」「好きなことをして過ごす日」など、自分自身を労って癒す日を、意識して作らないとダメな人って、いますよね?

私もその一人ですが(苦笑)

それもおかしな話だと思います。

そう決めないと自分に許可できないなんて。


私にとって睡眠は、必要だから、その時間まで寝てしまうのだと思うのです。

ストレスによって常に興奮している脳を休めるためには、長く眠らないとダメなんだってことかな?と。


だから、私の中の「怠け者ちゃん」が、柱の陰でブルブル震えながら涙目で「怒らないで」と懇願しないで済むようにしたいな、と思った今朝。

しっかり動く、しっかり働くためには、しっかり寝て、しっかり休むことが大事ですもんね。

悪口や愚痴を誰に話すか?が問題

私は、生きていれば誰かの悪口を言いたい時もあるし、不平不満を愚痴りたい時もあって当然だと思っています。

ですので、悪口言いたい時には言えばいいし、愚痴大会開催も賛成です。

ですが問題は、

言いたい悪口を、誰に言うか?

愚痴大会のメンバーをどうするか?

だと思うのです。



例えば、職場の中に、ストレスの元となる人(Aさん)がいたとします。

そのAさんのの悪口を、同じ職場の人(Bさん)に言いました。

BさんもAさんのことを良く思っていなければ悪口は言いやすく、悪口大会は盛り上がるでしょう。

ガールズトークの基本は「共感」ですから、「分かる分かる~!」って。

でも、この悪口大会は、非常に危険なのです。



かなり前のことですが、とある派遣先で、女子社員数名が1つのテーブルに集まってランチしながら、ある派遣社員の女子(Cさん)の悪口を言っていたことがありました。

私はそこのテーブルに同席していて、Cさんの話題で盛り上がる女子社員たちの話に混ざっていたわけですが。

半月ほど経ったある日、派遣先の上司に呼ばれました。

そしてそこで「君は同じ派遣元から来ているCさんの悪口を言って歩いているようだけど。職場の風紀を乱すので次の契約更新はしないから」と言われたのです。

…は?何それ?

私は、「言い出したのは私ではないし、私はそこまで言っていません」と抗議しました。

ですが、「私は君が最初に言いだしたと聞いているが、じゃあ、最初に言いだしたのは誰?」と訊かれ、私はそこで女子社員たちの名前を出すことができなかった。

だって、私もその場に居たのは事実だし、Cさんの悪口だと取られるような言い方をしたかもしれない。

女子社員たちの話に混ざっておきながら、「でも私は悪口を言っていません」など、上司は信用しないでしょう。

なので、契約満了日を待たずに、私はその派遣先を辞めざるを得なくなりました。


私はこの時の上司からされた「青天の霹靂」的な話のフラれ方を、忘れることができないのです。

どこでどう話が食い違い、どういう経過でどういうルートで派遣先の上司の耳に入ったのか?

さっぱり分かりません。

でも、「その場に居ただけ」でも「共犯」になり、酷い時には「首謀者扱い」までされるのだと、痛い思いをして学んだ出来事でした。

と言いながら、似たようなミス、失敗を繰り返しては、「全然学べていないじゃん」と自分を責めながら生きてきたことも現実ではあります。


そこでここ数年は、「共犯」「首謀者」などという不名誉なレッテルを貼られないために、私は、自分の中にルールを作りました。

それは、その職場、そのコミュニティの中では、そこに属している人の悪口を、そこに属している人や、その近しい関係者に言わないことです。


うっかり喋ってしまった悪口や愚痴が、どこでどう、どんな風に伝わっていくか分かりません。

ですので、誰かの悪口や愚痴を言う時には、「その関係者とは接点のない人に言う」ことを徹底する。

そして、できれば、「口が堅い人」であり、他の人に言わないと信用できる人ですね。


私の親友は県外在住であり、私が悪口を言いたくなるような人とは接点がありませんから、私は遠慮なく悪口を聞いてもらえます。

私だけではなく、親友も、自分の周辺で起こることへの愚痴や不満を話してくれます。

でも私にとっては全く知らない人たちの話なので、他人事として聞き流すことができるわけです。



悪口や愚痴は、言ってもいいんですよ。

その代わり、自分の身の安全を確保すること。

「誰に言うか?」には、くれぐれもご注意を。

「いえいえ、私なんてこの程度でいいんです」って豊かさの受け取り拒否

少し前、某派遣会社からあったお話は、時給1.100円の仕事でした。

そして、その少し後にまた別の派遣会社からあったお話は、時給1.500円の仕事でした。

私はこの時、気づいたのです。

「時給1.500円の仕事なんて、恐れ多くてエントリーできない」と思っている自分に。


「時給1.100円の仕事」は、その業務内容からすると「安いな」と思うような金額でしたが、私はなぜかそこで、ホッとする自分がいることに気づきました。

……おかしいぞ。だって、お金欲しいはずなのに、どうして時給1.100円でホッとするんだ?

そう思えた私は、そこで自分と向き合って考えたのです。



すると私の中に「時給1.100円もらえるくらいでちょうどいい自分」がいたことが発覚。

「少々お安め時給」が、自分には「お似合い」なのだと。


「時給に見合った仕事ができない」と、派遣先から酷評されることが怖い。

「時給1.500円なんてもらう価値が、私にはない」

自己評価の低さや、人からどう思われるか?を気にした結果、私は無意識で「受け取る上限を決めてしまっていた」のです。

「時給1.500円あげますよ」と相手は言ってくれているにも関わらず、「いえいえ、とんでもない。私なんて1.500円もいただけるような価値はないんです」とお断りする。


どうでしょうか?

私は、自分がいつまで経っても貧乏な理由が、分かりました(笑)

だって、自ら「受け取り口」にフタして閉めてしまってたのですから。

棚ぼた的なラッキーだけでなく、自分がいただいてもいいお金まで拒否していたことになります。


これ、仕事のことばかりじゃないですよね。

恋愛や結婚だって、「ちょっとダメ男くらいが私にはお似合い」なーんて思ってるから、いつまで経っても「ちょっとダメ男」としか付き合えない。


「望むこと」は許されるでしょ?

実際のところ、時給1.500円の仕事には行けないかもしれません。

現実として、様々な妥協も必要になるでしょうし。

でも、最初から自分の「上限」を決めて、「受け取り口」にフタしてしまうことはないですよね。


「私にはそれを受け取る価値がある」なーんて小難しく考えず、

回転寿司で自分の好みのネタが回ってきた時と同じように、「来た来た~♪ GET!」って感じで手に取ればいい。

回転寿司で、「私にはマグロを食べる価値などない」なんて考え込まないですもんね(笑)

「あの人、マグロ食べてるよ」なんて、誰かが白い目で見るわけじゃないし(笑)


私はこのことに気づき、今後は自分の「受け取り口」をオープンにしておくことにしました。

「私ってどうせ、この程度の人間だから」もクソもへったくれもなく、ただ、「開けておけばいい」だけ。


自分に欲しいものがあることを、自分に許す。

お金いっぱいもらえる会社に入りたい、イケメン彼氏欲しい、などなど、「望む」のはタダですもん。

自分で「豊かさ」を望んでおきながら、「いえいえ、必要ありません」のように「受け取り拒否」しているって、おかしな話ですよね。

「お金」を使ってマウンティングしてくる人って怖い!

私の母親は認知症で、現在、某施設に入っています。

2年間精神病院に入院していましたが、今年の夏に退院し、今いる施設に入ったのですが。

でも、ここの施設も、今月には出る予定になりました。

それは、9月に入って2ヶ月しか経っていないのに、先月、問題が発生したからです。

結果的に言うと、とある問題をきっかけに、長女であり母親の全ての責任を負う立場にある私が、その施設を信用できなくなったから。


「退所したい」と施設側に申し出てから、数回、施設長と話をしました。

するとその中で施設長が数回繰り返したのが、「料金の安さ」についてでした。

正直言って、そこの施設を選んだ理由は、「料金の安さ」です。

精神病院が用意した「老人ホーム紹介センター」なる怪しい人たちが仲介した、こちらの予算にマッチングした施設というわけで。

ですが、料金の安さを優先したので、我が家からは遠くて不便さを感じていたのも事実でした。


今回、そこの施設長の「うちは安いでしょ?」という物言いに、なぜかイラッとしていた私。

つまり言いたいことは、「お宅の予算内で収まるのはうちの施設くらいだ」ってことかしら?

「料金的に問題がありますか?」のような言われ方もしました。

でもね、私は私の「イラッと」の理由が分かったのです。


安かろうと高かろうと、料金を決めたのは、施設側です。

私は「安くしてください」とお願いしたわけではありません。

料金とこちらの予算がマッチングしたから選んだだけのこと。

なのに、「安いでしょ?」と、その料金の安さを言葉にしてくるのは、おかしいと思いました。


この施設に見学に行った時、そこで働く施設長の次に偉い人?が、こんな風なことを言ったのです。

「(入居者たちが)もっと美味いものを食べさせろって、ウナギを食べたいとか言ってくるけど、1日××円の食事代で何言ってるんだ?って思う」って。

これを聞いた私は、「うわー。すごい上からな言い方だな~。しかも、これからここへ入ろうってお客さん(私)の前でそれを言うかな~」って思いました。

それに、そんなことを言うなら食事代値上げすればいいのに、とも思いましたよ。

やはり今になってみて、この時に感じた違和感を大事にすべきだったと後悔しています。

ここの施設は、「料金の安さ」を売りにしているのでしょうけど、同時に、「安くしてやっている」という意識が見え見えなのです。


勘違いしないでほしい。

こちらには「安くしてもらっている」などの意識はなく、施設側が提示する金額を支払っているだけのこと。

ですので、そこを恩着せがましく言われた気がして、イラっとしたわけです。


捻くれたものの見方かもしれませんが、私の母親のような認知症や、家族に面倒を看てもらえない高齢者など、社会的弱者とも言える人たちが入る施設では、「人助けをしている」という表側の顔の裏側に、そういう人たちの生活をサポートすることによって満足させるネガティブな顔を持っている人も存在します。

「上から目線でいたい」と思う人には、「自分より下にいてくれる存在」が必要でしょ?

先生には生徒、親には子供、というように、その存在を作るために必要となる「対の存在」がありますから。



「お金」というものは、人間の上下関係を作る上で、とても便利なもの。

「お金を持っている方が上」のような勘違いをさせるのも仕方ないでしょうね。

「お金」を使ってマウンティングしてくる人は、少なくないのかもしれません。

マウンティングとは、「自分が優位であることを示そうとするコミュニケーション」とありました。

おサルさんが他のおサルさんに背乗りするやつですね。

料金を安くするのは、売り手側の勝手です。

それは商売として、メリットがあるからそうしているのではないですか?

「お客さんのために安くしている」と言いながら、「安くしてやっているんだ」とお客さんを下に見るネガティブな意識で商売しているなんて、怖いな~と思いましたよ。

でも、バーゲンセールは大好きですよ(笑)

お安くしてください♪