今、悩んでいること②「職場で誰とも話さないこと」

私事ですが。

ここ最近、「つまんないな」と心から思う事。

それは、「職場」です。

だって、誰とも話さず、笑うこともない、ただひたすらパソコン画面に向かって作業する日々なんですもん。


私がいるのは30人ほどいる大部屋で、その中で派遣社員は私だけ。

女性は社員が3名いるだけで、あとは全部男性。

もちろん、仕事中は仕事の話をするのが当たり前でしょうから、笑いや雑談を求めるのは無理って分かります。

でもね、派遣の私は朝礼にも会議にも呼ばれず、社員に与えられた仕事しかない。

社員たちが笑って雑談していても仲間には入れないし、仕事の話でディスカッションしていても、私は部外者。


「疎外感」と「孤独感」は、派遣社員でいる以上は仕方ないのかな?とも考えるのですが、今まで働いてきた職場で今みたいな気持ちを味わったことって無かった気がするのです。

昨日、ある知人にこの話をしたら、「そういう職場が好きで向いている人もいるよね」と言われました。

うーーーん、そう言われると、私はね~


先週の金曜日、私は職場で、たった4回しか言葉を発していません。

「おはようございます」「お先に失礼します」は普通に挨拶で、作業して仕上げたものをプリントアウトして上司のところに持って行き、「できました。チェックお願いします」と、タイムカードに押印してもらう時の「お願いします」「ありがとうございました」って。

たったこれだけ。

この現実に、自分が一番驚いているんですよ。

「口から生まれてきた」と両親から嫌味ばかり言われていた口数の多い私が、この現状によく耐えているよね?とも思いますし。


仕事は好き。

好きなことしか仕事にできませんから。

でも、さすがにこの状態じゃあね…

会社に行きたくない、つまらない、って思ってしまうのも当然だよなー、と思います。

親友にメールで愚痴ったところ、「職場は、仕事だけしていればいいんじゃなくて、プラスアルファも必要だと思うよ」といった返信もありまして。



でも、このことから私は、かなり重要な気づきを得ることになりました。

それはこの次で書きますね。

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今、悩んでいること①「私、このままでいいのかな?」

私事ですが。

平日フルタイムで仕事(ライスワーク)をしていると、週末の休日は現実的な処理を優先することになります。

掃除、洗濯、買い物などなど。

それに加え、妹家族や知人友人と食事に行く、猫を動物病院に連れて行く、などなど、ゆっくり休む間もなく、また月曜日になってしまう…

といった繰り返しなのは、きっと私だけじゃないんでしょうね。

自分の時間なのに、自分の思うように使えていない。

というよりも、自分を癒す時間、解放する時間が作れていない、と、最近特に感じます。


お金のために生きているわけではないですが、お金がないと生活できないことが現実なので、ライフワークとしてのメンタルケアワークよりも、生活費を稼ぐためのライスワークである派遣の仕事の方が優先される。

それは仕方ないことだとは分かっているものの、正直言って、

「私、なにやってんの?」と自問することも少なくないのです。

好きな仕事をするために、まずは生活を安定させる必要がある、と思っていました。

なので、ライスワークとして派遣で働き、収入を得ることがベストだと。

しかし、ここ最近、なんだか虚しくなるんですよね。

「私、このままでいいのかな?」って自問してばかりいます。


会社に行くと、ブログネタにしたいエピソードや気づきがあるのですが、それをブログにしてアップする時間がない。

覚えていられないからメモしておくのですが、仕事ですっかり疲れてしまい、帰宅してパソコン開けることもできません。

これじゃあ、「生きるために仕事をしてお金を稼ぐ」のではなく、「お金を稼ぐために生きている」になっている。

だから、「それって、どうなのよ?」と、自問し始めるわけで。


私にも夢(?)があり、いずれ、ライスワークとライフワークを統合したい、と考えています。

今はそのための通過点であり、勉強の時なのだと思い、日々生活をしているのですが……

先の見えないトンネルなのか、トンネルじゃなくて穴の中に迷い込んだのか分からない今…

短気だし、わりといい度胸していてサッサと決めるタイプの私が、ちょっとモヤモヤしてるんですよね~

うーーーん。

自分で「被害者」「犠牲者」の役割をを選んでいませんか?

知人Aさんは、認知症の夫の介護をしている専業主婦。

すでに年金暮らしであり、夫婦合わせた年金額は老後を生きるに困らない金額。

でもAさんは、夫を自宅で在宅介護しているのです。

先日Aさんから、「緋呂子さんの体験した在宅介護の大変さを味わっている」とメールが来ました。

まぁ、私も、認知症の母親を看ていた1人ですが、このコメントを読んでもピンと来るものは無かったのでした。

Aさんとはたまにメールをやり取りしますが、食事やお茶に誘われても、その気になれないんですよね。

だって、おそらく話すことって、介護の愚痴や夫への文句で終わりそうなんだもの。


昨日、ちょっとした用事でメールをやり取りしたら、Aさんから「痴呆老人に振り回されて返信が遅くなってしまった」というようなコメントが来たのです。


これを読んだ時、私は思いました。

え?でも、それを選んでいるのは、あなたでしょ?

と。


もちろん、その家その家、その人なりに、他人には分からない事情があると思います。

しかし、施設に入れるだけの十分な経済力がありながら、なぜ在宅介護を選んだのか?

それもまた、Aさんの事情ですが。



私は、そこで思ったのです。

自分でその苦労を選んでおきながら、「辛い、苦しい」と訴えるのって、ちょっと変じゃないの?

Aさんは認知症の夫に、「施設には入らない。お前に在宅介護してほしい」と頼まれたのだろうか?

または、誰かや何かに、「あなたが在宅介護しなければいけない」と言われたのだろうか?


そういう私も、Aさんと何ら変わらない、自ら選んで親の介護を引き受け、「辛い、苦しい」と訴えていました。

その時の私の頭にあったのは、「結婚して子供もいる妹とは違い、私は独身で、長女で、ましてや親と同居しているのだから、私が母親を看るのは当たり前」という意識でした。

しかし、認知症が重くなるにつれ、母親と関わることは本当にキツくなり、自分ばかりが貧乏くじをひいているかのような気持ちに。

辛い。

でも、逃げられない。

だって私は、長女で、結婚もしてなくて、子供もいなくて、実家暮らしで。

だから、私が看るのが当たり前でしょ。


知人Aさんが、この時の私と同じ意識でいるかどうかは知りません。

ですが、この「介護する側」という「役割」は、自分の意思で「放棄」することができるのですよ。

誰にも裁かれず、責められずに、辞めることができるものなのです。

不思議なことに、「もう、被害者をやめよう。犠牲になることをやめよう」と決めた時から、運気の流れが変わります。

なぜならそれは、「自分自身を大切にする」ための決意だからです。

「自分自身を大切にする」ことを、許さない人やものがあるでしょうか?



私の親友は、ガンになってしまった父親を在宅看護し、数か月後に看取りました。

その間彼女は、一言も愚痴らず、ただただ父親のために、自分ができることを考えて動いていたのです。

病院に入院させるのではなく、自宅で世話をしてあげたいと、彼女は在宅看護を選んだ。

自分の意思で選んだから、愚痴や文句が出なかったのでしょうね。


今になって思えば、私自身、誰に頼まれたわけでもないのに自ら親の介護を買って出て、「辛い、苦しい」と嘆いていた愚か者だったな、と。



私たちは、自分が選び取った人生を生きています。

ですから、「なぜこんな目に遭うの?」と嘆くことはおかしなこと。

「辛い、苦しい」とする生き方を、選ばなければいいのです。

被害者にならない、犠牲者にならない人生を生きる権利は、ちゃんと平等に与えられていますから。

「楽に生きる」ために必要なたった一つのことは

楽に生きたかったら、他人を気にしないことです。

他人を軸にしない。

他人の評価を求めない。

それができたら、本当に楽に生きることができると思うのです。



今日は仕事がスムーズに行かず、少々凹みながら帰宅しました。

寝不足続きで朝からあくびが止まらなかったし、何となくダルくて、いつもの調子が出なかったことが原因でしょうね。

そんな今日は、久しぶりに息苦しさを感じたのですが。

やはり、ちょっとストレスを感じると息苦しくなるようです。

「あ、まただ。も~、どうして私はこうなっちゃうの?」

と、自問してみました。

今日の私の仕事は、出張で出かけた上司が、私のデスクの上に置いて行ったもの。

量的に、おそらく数時間で終わるでしょう、と考えていました。

ところが、集中力が無いというか、同じ個所を何度も間違えたりして、一向に先に進まない。

加えて、作業したデータが保存できないなど、いつもは考えられないようなトラブル続き。


…は~。

どうしちゃったのよ、私??

「困った」と思えば思うほど息苦しくなるし、耳鳴りもひどくなってくる。

そこで、再確認したのです。

『今日出張で出かけている上司に「サボっていた」と思われたくない自分』がいることに。


自分が出かけていたからサボっていた、と思われたらどうしよう?

人が見ていないとサボる奴なんだ、と思われたら困る。

気づいたら私は、「言い訳」で頭がいっぱいになっていました。

…今日は体調が悪かったと言おう。

…いや、そもそもデータを提出しないでおこうか?

など、どうやって言い訳しようか?ばかり考えていたのです。


今の私の職場で働くのは、雑談をする余裕もなく働く人たちです。

私も仕事以外のことは話しません。

大声で笑ったり雑談なんてとんでもない、って感じの雰囲気なんですよね。

なので、サボりたくてもサボれないのが現実。

なのに、毎日こなす業務量の半分もいかなかった今日は、「サボっていたと思われるに違いない」と怖くなってしまったのです。




改めて思いました。

私、まだまだ他人を軸にして生きてるな、と。

「人にどう思われるか?」を気にしている限り、ストレスからは解放されません。

自分には自分の事情があり、時には、今日の私のように調子が出ないこともある。

その度にいちいち人の目を気にしていたら、疲れちゃいますね。



楽に生きたいと思うなら、マイペースで生きることを自分に許すしかないのでは?

できないものはできない、失敗することもある、と、開き直るしかなさそうですよ。

「他人の目」が自分を窮屈にするものなら、それを気にしない、という結論です。

「更年期」「太ってる」陰で笑われるのが怖くて汗が拭けなかった私

親しい人との会話の中で、「普通、○○だよね~」と言うことがあります。

ですが、その「普通」って何よ?と、思わず自問してしまう。

「普通」とは、おそらく「一般的に」という意味で使ってるのでしょうけど。




私は子供のころから人とはちょっとズレていたらしいので、この「普通」の枠からだいぶはみ出して生きてきたと思います。

それは、物事への意識や視点、思考や行動などですが、ここ最近は、体型や健康面での「人と違う」ことが問題になってきています。

「HSP(ハイリーセンシティブパーソン)」と言えるほどではないのでしょうけど、色んな事に「敏感」であることは間違いありません。

環境面や対人面でのストレスが自律神経を直撃し、すぐに体調不良になります。

そして、かなり太っていますから、標準体型の人には分からない問題も抱えがち。

そういうの今まで「恥」みたいに扱っていて、自分の「一般的じゃない部分」に対し、憎しみさえ抱いていました。

でもそれは、「人と違うことはいけないことだ」とした我が家の親たちの考えが原因でしょうけど。


我が家の親たちは、「普通」が好きな人たちでした。

ですので、良くも悪くも人より目立つことを嫌い、自分たちも、子供たちも、「普通」「一般的」「平均的」な枠の中で生きることを良しとしていたと思います。

しかし残念ながら、何かにつけて「普通じゃない」私ですから、親たちから嫌われたのは仕方ないでしょうね。



実は私、職場で困った状態が続いていたんです。

椅子の高さやパソコンモニターの高さが合わず、毎日腰痛や首痛で苦しんでいました。

私の職場は大部屋ですし、使っている椅子のメーカーも様々のようですから、探せば私に合う椅子が見つかるかもしれません。

なのに私は、今使っている椅子の高さやパソコンモニターの高さが合わないことを誰にも言えず、首や腰の痛みを自力で何とかしようとだけ、していたのです。

だって、「椅子の高さが合わないから違う椅子と交換してほしい」なんて言えない。

一般的な高さで作られているオフィスチェアだもの、そんなこと言ったら「私は太っているのでお尻の厚みの分、座高が高くなるんです」ってバレてしまう。


でも結局は腰痛首痛に耐えられなくなり、先日、違う椅子を探すことに。

椅子はすぐにちょうどいい高さのものを見つけ、快適になりました。

パソコンモニターの高さに関しては、隣の席の男性社員に話をしたところ、その会話を聞いていたのか、遠くの席の男性社員がパソコンモニターの下に敷くようにとお菓子の箱を持ってきてくれたのです。

これは嬉しかった。

「僕も座高高いので」と笑って言ってくれました。

あいにく、そのお菓子の箱は高さが合わずにお借りすることができませんでしたが、その男性社員の優しさを知ることができましたし、私と同じようにパソコンモニターの下にカタログなどを入れて高さ調整している人がいるという事実は、安心感を作ってくれますよね。



痛みで辛い、精神的に苦しいなど、自分の体や気持ちの事情やは、自分だけのものです。

他人はそんな自分のことなど分かるはずがない。

なので、他人に遠慮することなく、自分で自分の身を守る強さが必要だと思います。

最終的に自分に責任を負うのは、自分自身です。

最後まであてになるのは、自分自身だけ。


こんなことを書いている私ですが、「人にどう思われるか?」と他人の評価を気にしてばかりいて、「普通ではない、一般的ではない、平均的ではない自分」を隠そうとして生きてきました。

更年期症状や太っているせいで汗がダラダラ出ても、周囲の目が怖くて汗が拭けない。

「あの人、更年期だよね」「あの人、太ってるからだよね」と陰で笑われるのを想像してしまい、汗を拭くことができませんでした。

しかし、「困っているのは自分」であり、他人は私の「困っている」を何とかしてくれるわけじゃない。

だから今は、例え陰で笑われても、自分の事情を優先すべきだと思うようになりました。

「つーか、アタシが汗拭いたことで、アンタ達に何か迷惑かけた!?」くらいな気持ちで(笑)



「普通」「一般的」「平均的」の枠の中で生きることは、「安心」なのかもしれません。

「普通じゃない」ことが多い私は、少なくともそう思ってしまいます。

「人と違う」「ちょっと変わってる」って、正直、生きにくい。

でも、それが私なのだから仕方ない、と、受け入れていくしかないと思うのです。


本来ならば、「人と違う」=「個性」として扱われ、尊重されこそしても笑われるものではないはず。

ですが世の中には、それを「悪」だと見たり、笑ってバカにする人もいる。

だから、そういう人は相手にしない。

それこそ、「自分は自分」でいいと思います。

人と違う自分を許して、強くなりましょ。

「できない」と伝えた、その後

先々週、「イエスマンをやめた」私でしたが。

その後どうなったか?を書きたいと思います。

…そうですね。

ちょっと想定外の方向に行った、という感じでしょうか。


先日、職場の上司に呼ばれて言われたことは、期間を指定されてのスキルアップ要求でした。

「できません」→「やりません」ではなく、「今はできなくてもいいので、いずれできるようにスキルアップしてください」だったのです。

そして上司は、私が「できない」と申し出た部分について、その場で時間を取って丁寧に指導してくれました。

「即戦力」で雇用されることが一般的である派遣社員には、企業側からの「教育」という部分は期待できません。

私も長く派遣社員をしていますが、パソコンスキルはパソコンスクールで学びましたし、検定試験も自費で受験、仕事で使う資料(本など)も全て自費で購入するのが当たり前、というスタイルでした。

ですから、上司(しかも役職のある)に直接指導してもらえたなんて、本当に嬉しかったです。

さらに驚いたのは、職場の社員たちに対して、私が十分に仕事できない間は無理に仕事を振らないよう、会議の場で言ってもらえたこと。

例え専門職でも、他の企業で働いてきた私には、今の職場のルールで動くのには時間を必要とします。

自分たち社員はずっとその職場にいるわけですから、外から来た私の混乱状態が理解できるはずもなく、「知ってて当たり前」とばかりに、自分たちの職場ルールで仕事を振ってくるんですよね。

そこが一気に改善されたおかげで、その後の私は仕事だけに集中できる環境を手に入れたわけです。



私は、「できない」を言ったことで、「できない」→「やらなくていい」か、「できない」→「クビ」か、そのどちらかの選択肢しか持っていなかった。

なので、「この部分まではスキルアップしてください」と言われたことにはホントに驚きでしたし、

「歩み寄る」とはこういうことなんだ、と理解できたのです。


人間関係もそうですが、私は、白か黒か、の2択の選択で生きてきた気がします。

そう考えると、もう、そういった自分スタイルを変える時に来たのだな、と思うわけで。



心理学では、人間関係についての例え話に「ヤマアラシのジレンマ」というものがあります。

これは、鋭い針毛を持つヤマアラシは、相手に近づくと自分の体の針毛で相手を傷つけてしまうから近づけない、というジレンマがあるのですが、

2匹のヤマアラシが寒い日に温め合おうと、ちょうどよい距離を見つけて体を寄せ合う、というお話です。


人間関係はこういうことなのでしょうね。

お互いにちょうどよい距離を探すのは、なかなか難しい。

でも、その努力を怠っては、人間関係の構築もないのかもしれません。

私は職場での自分の状態がまさにこの2匹のヤマアラシだったと知り、歩み寄ってもらえた職場側に大いに感謝いたしました。


今回、「自分の事情や気持ちを大切にする」ことから始まり、それを「相手に伝える」ことで、結果的にピンチを乗り越えることができました。

「イエスマンをやめる」ことは、長年イエスマンとして生きてきた人にとって、とても勇気のいるチャレンジになるでしょう。

「恐怖」との戦いになるはずです。

ですが、私自身、できないことをできないと「言ってよかった」と思っています。

もし思うような結果が出ずとも、それまで抱えていたモヤモヤは無くなるわけですし。

動けば必ず結果がついてきますから、次に進む腹もくくれる。



私はこういうことを自分自身で体験してみて、「出る結果」が云々よりも、ストレスを抱えている間のモヤモヤの方が問題だと思いました。

「結果が出る」ことは、怖いですよね。

でも、結果を出さずにモヤモヤしていることは、メンタルを疲労消耗させてしまう。

だったら、抱えている問題を終わらせることを考えるべきだ、と思います。


結果にこだわっていたら、いつまでも動けません。

ですので、相手があることは、まず相手に伝えてみるといった行動をオススメします。

私は人の期待に応えないことが怖い「イエスマン」でした

私事ですが、今、職場で少々問題を抱えています。

情報開示には限界があるので詳細は書けませんが。


まぁ、派遣社員として働く私が自分自身で考えている業務内容と、派遣先で要求される業務内容が違うことが原因です。

派遣元には、自分のスキルを伝えてありますし、派遣先での面接の際も伝えました。

でも、いざ現場に入って働いてみると、あれもこれもと次から次へと要求があり、クビになりたくない私は、それらを全て受け入れる形になっていました。


自分の中に「派遣先での要求を受け入れないとクビになる」「相手の期待に応えないといけない」とする気持ちがあり、とにかく、「物分りのいい、できる人材」として振る舞うことに精一杯だったのです。

ですが、そんな付け焼刃のような仮面は、あっという間にはがれることに。


自分のスキル以上の業務を請け負うことは、ストレス・負担なんてものではなかったのです。

先日、仕事中に、息苦しさと動悸、頭痛が一気に来て、座っていることが精一杯の状態になりました。

このまま椅子から落ちて倒れてしまうのではないか?と思ったくらいでした。

それが夕方だったため、そこは何とか持ちこたえて、次の日は休んで病院を受診。

ここ最近、息苦しさと動悸がひどかったため、循環器内科へ行ったのですが、そこで検査もした結果、心臓には特に問題ないとのこと。

「精神的なものでしょう」という診断を受け、スッキリしないまま帰路についたのですが。


これまで何回か、派遣先の社員や上司には話をしてきましたが、それらはすべて、「どうしたらクビにならずに済むか?」という気持ちからのものであり、今の自分自身の状態を打ち明けることはしませんでした。

「要求される仕事ができない」=「期待に応えることができない」となると、間違いなくクビになる。

そうなれば無収入ですから、クビになることだけは絶対に許せなかった。


しかし、体調はどんどん悪くなる一方で、週末に書いていたブログも先週は書けず、ついには自律神経失調症で体温調整が上手くいかなくなったのか、寒くて眠れないといった事態に陥ってしまいました。

そこでもう、腹をくくり、派遣元に連絡して現状を伝え、「要求されている仕事は自分のスキルを越えているので、できない」と、派遣先に伝えてもらえるようにお願いしたのでした。


それが先週の木曜日のこと。

正直、怖かったです。

今も、怖くて怖くて、昨日も今日も寝込んでしまいました。

何も手につかず、食料の買い出しにも行けず、家事もできません。



私は、「イエスマン」をやめたのです。

だから、その結果どうなるか?その影響が怖くて、引きこもっている。

「できない」と相手に伝えることがこんなに怖いことだとは知りませんでした。

「できない」と派遣元に言おう、と決めた前の晩は、布団に入ってからひどい悪寒と動悸に襲われましたし。

「恐怖」というものを感覚で知り、本当に辛かったです。

でも、「イエスマン」をやめないと、どこまでも健康を害してしまう。


それに、派遣社員には何の保障もありませんから、健康を害して働けなくなったらアウトです。

働く場所は、他にもあるでしょう。

でも、働く自分自身には、スペアがありません。



私がなぜ「イエスマン」としてしか生きて来られなかったか?

それは、子供のころの親との関係性に原因がありました。

私の父親は、自分の言う事をきかない私に殴る蹴るの暴力を振るいましたし、母親は、「厄病神」と罵っては無視する、疎外する、という人でしたから。

親の「イエスマン」でいなければ、ひどい目に遭う。

私の「イエスマン」のルーツなんて、たったそれだけのことでした。

「NO」を言えば、報復される。

反旗を翻したと受け取られ、攻撃される。

だから、親の言う事をきく、「物分りのいい子」であれば、攻撃されない。

そもそも嫌われていて大事に扱かってもらったことなどありませんが、暴力を含めた攻撃は勘弁してほしい。

たったそれだけのことが、50歳を過ぎてもなお、影響し続けている、というわけです。


「イエスマン」をやめることは、怖いことですね。

相手に攻撃されるリスクもありますから。

でも、私にはもう、ガマンができませんでした。

明日、仕事に行けば、結果が出るでしょう。

「イエスマン」をやめたことで攻撃されるなら、喜んでクビになろう、と今は思っています。