「人に嫌われる原因」??「人に嫌われない」ために生きていませんか?

昨夜ネットで、とある占いサイトを見ていました。

ちょっと有名な占い師のサイトでした。

占い大好きな私はついつい見てしまうのですが、昨夜は見たことを後悔する結果になってしまったのです。


そこに書かれていたのは、「あなたが嫌われる原因」でした。

こういう切り口で書かれていると、読まずにいられなくなります。

そこで、何も考えず、うっかり見てしまった……

するとそこには、日頃から自覚している「痛い現実」が書かれていて。


「あぁ、やっぱりね。だろうね。だから私は嫌われるんだ。嫌われているんだ」と、落ち込み始めました。

こうなるともう、「じゃあ、どうしたらいいのか?」を考えずにはいられません。

「それは大問題だ。だから、問題解決を考えなきゃ。さぁ、どうしたらいいんだ?」

占いサイトに書かれていた「嫌われる原因」を何とかしないと、私は人に嫌われ続けて、一生幸せになれないかもしれない。

そう、これはまさに、「私の短所」と言えるもの。

私は悩み始めてしまい、結局、昨夜はろくに眠れないまま、今日は仕事に行くはめに……



私は考えました。

……でも。

短所は長所なんだよ。

短所と長所は表裏一体で、別物じゃあないんだよ。

だから、短所を克服しようとすると、長所まで無くなっちゃう。

うーーーーん。


今日は仕事も手につかず、夕食を作る気力もなくて、コンビニ弁当を買ってくる始末。

あーあ。

どうしてこうなっちゃうわけ?

あんな占いサイト、見なきゃよかった……

だいたいさぁ、ああいう書き方されると、私みたいに自己評価が低くて自分を責める人は、絶対に心が折れるよね?

占いってさ、人を幸せにするもんじゃないの?

なのに、凹ませてモチベーション下げてどうすんのよ?

……と、だんだん腹が立ってきたのです。


そしてついに、「自分らしさを殺してまで人に好かれなくてもいいわ。嫌ってくれて結構よ。どうせ私は嫌われ者よ!」と、口から言葉が出ていました(笑)



私は思いました。

「生きる」って、「人に嫌われない」ことを目的にしてるんじゃないでしょ?って。

「生きる」って、自分らしくして自分なりの幸せを手に入れることでしょ?って。



「人に嫌われないこと」を目的にしている人は、きっとどこかで自分を殺し、無理して人と関わっているのでありませんか?

自分の短所を克服しようと頑張りすぎて、自分がしたいことさえ見失ってしまっていませんか?

他人を軸にして生きることが習慣化すると、そこには自分は存在しません。

人間関係で苦しんでカウンセリングを受けてくださるお客様のほとんどが、こういった傾向をお持ちです。


でもね。

これだけは言わせてください。

短所を封印しようとすると、長所も消えちゃいますよ。

そして、自分を否定することは、幸せから遠ざかることです。


この世には、いろんな人がいて、だからそこには「相性」というものがある。

だから、自分の個性を「短所」だと見る人とは関わらずに、「長所」だと見てくれる人と関わればいい。



「人に嫌われないこと」を生きる目的にするなんて、私は嫌い。

短所は長所。

2つは表裏一体。

短所を嫌って遠ざけたり克服しようとする前に、いつもとは違う方向から自分を見る。

楽に生きたいなら、「人に嫌われないこと」のために生きるのをやめましょうよ。

そもそも、「人に嫌われる原因」なんてものが存在しなかったのに。

悩むことなかった(笑)

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グレーな解決。曖昧なままでいることもアリ

相性が悪い相手は、どこにでもいます。

どうやっても理解し合えない、常に不満だけを抱える相手。

それが他人であり、「取り換えることができる相手」ならいいのですが、親子や兄弟姉妹などの血縁者は、取り換えることができない厄介な関係です。


私は母親が嫌いです。

母親には私自身を理解してもらえず、どんなに尽くしても愛されることのない相手でしたから。

でも、そんな母親が認知症になり、もう、誰のことも分からなくなった今、それでも憎しみは消えない。

親子であるがゆえに、この感情から解放されずにいるのです。


私は短気だし、物事は白黒つけたがる性分です。

何より、自分が納得しないと動けないタイプで、その方向性を定めるために、相手と深く関わろうとして失敗します。

相手の本質を知ることで、「どう関わるか?」を決める。

そういう人間関係の構築の仕方をしてきました。

しかし、ここ最近、それは損なことでもあるな、と気づいたのです。


「白黒つける」ということは、「関わるか、関わらないか」のどちらかにするということ。

ですが、相手が血縁者の場合、「関わらない」が難しくなります。

どんなに嫌いでも憎くても、介護が必要な母親を放置するわけにはいかない。

なので私は、自分のコミュニケーションスタイルを、ひとつ増やすことに。


私の「白黒つける」は、「感情」によるものです。

「好きか、嫌いか」で、決める。

でも、それだけのコミュニケーションではうまくいかないので、その「白」と「黒」の間の「グレー」を取り入れることにしました。

「白でもなく、黒でもない」=「グレー」な関係。

それはとても曖昧で、少々居心地悪い感じですが。


しかし、人間関係なんて、この「グレー」がほとんどなんだと思います。

そこにある感情を無視したり、抑圧したりしろ、というわけではありません。

「嫌い」なら嫌いでいいのです。

「分かり合えない」なら分かり合えないでいいのです。

その「嫌い」なまま、「分かり合えない」まま、そのままで関わる。


「心」を脇に置いて関わることは、最初はちょっと大変でしょう。

ですが、そこも訓練でなんとかなるもの。



私はわりと二面性があり、「心」を脇に置いて顔だけ笑うことが得意です。

いつも正直な自分のままでいると疲れてしまうことも事実ですし、悪意を放ってくる相手から身を守るには、「演技」も必要だと思います。

自分の「心」まで騙すのではなく、相手だけ騙す。

こうして、グレーなまま、「タテマエ」を使ってうまく関わり続けることは、社会人として必要なスキルなのかもしれないって思います。

「シャドウ」自分の中にある否定したい悪の存在

セルフセラピーカード No.23 「シャドウ」

心理学用語に「シャドウ」という言葉があります。

これは、「自分の中にある否定したい悪」という意味を持っていて、この「シャドウ」は「他人に投影される」ものです。


昨日私は、お友達と会ってお茶をしながら、お友達がすいぶん前に働いていた職場の同僚の悪口大会をしてきました(笑)

もちろん、それはお互いの「シャドウ」に対しての悪口になるわけです。

だいたい、人の気に入らないところって、「シャドウ」なんですよ~

「自分の態度の悪さを棚上げして、あの人って挨拶しないとか、言ってるんだよね~」

「勤続年数長いからって、上からな言い方するよね~」

「40歳過ぎて結婚したいとか言ってるけど、お料理全然できないじゃ~ん」

「自分に都合の悪いことは全部人のせいにするよね~」

「私ってデリケートだとか言っちゃって、個人のメアドに抗議メールもらったよね~」


なーんて、もうずいぶん前の職場の同僚のことなのに、大笑いしながら悪口言ってきたのですが。

これ、み~んな、私とお友達の「シャドウ」です。


「シャドウ」って、「自分が認めたくない悪い自分」。

でも、こうやって人の悪口言ってみると、その相手に「投影」されていることがよく分かります。


どうでしょうか? 悪口大会した私たちの中に、

「自分の態度の悪さを棚上げして、人を批判したい」

「勤続年数長いからと、上からものを言いたい」

「スキルが伴っていなくても、自分の欲求を叶えたい(料理ができなくても結婚したいと言いたい)」

「自分に都合の悪い子とは全部人のせいにしたい」

「相手の個人メアドに抗議メールを送りたい」

といった「悪意」があったことが、お分かりいただけるでしょうか?



「シャドウ」は、他人(投影)を使って、私たちにその姿を見せつけてきます。

それなのに私たちは、「そういう他人」だと思い込み、批判的に見ては、平気で悪口を言うわけです。

いやいや、違う違う。それはあなた、あなたなのよ~。

私たちは自分の姿を見せられているだけなのよ~。


「シャドウ」は、「いい人の仮面(ペルソナ)」とセットとして存在するもの。

「いい人」でいようとすると、周囲が「シャドウ」だらけになってしまいそう(笑)

ですので、ワタシ的には、適当に「シャドウ」を解放してあげることを、オススメします。

さて、自分の態度の悪さを棚上げして、人を批判するか~(笑)

あ、いつもしてるか~(笑)

今年ももっと自分らしく。「自分らしさ」を許してストレスフリーな生活を!

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

正月とは言え、普段の生活とほとんど変わらない状態の私ですが。

母親のことを年末に片付けてしまったので、気持ち的にはとってもリラックスしています。

今年はマイペースを保ち、自分自身のための年にしたいものです。


昨日、ふと気づきました。

最近、動悸が無くなったなって。

去年の秋くらいから息苦しさを伴う動悸がひどかったのですが、今はすっかり大丈夫な状態。

人間関係のストレスで、よく眠れなかったせいだったのだと思います。

やはり睡眠は大事だなということが改めて分かったので、今年はしっかり眠れるよう、ストレス対策していきますよ~



同じ状態でいても、ストレスになる人とならない人がいます。

それは、その人の中にあるストレスセンサーの精度が高いから、ということも言えるのではないでしょうか?

例えば私は、匂いに敏感で、タバコの煙の臭いや、香水、芳香剤、アロマなどの香りで、片頭痛の発作を起こします。


ストレス耐性の低い人って、特定の物事に「過敏に反応してしまう」んですよね。

最近はそういう人を「人一倍敏感な人」= 「HSP」(ハイリー・センシティブ・パーソン)なんて心理学者が提唱したりしてますが。

だからといって病気っていうわけじゃなく、世の中には、平均よりちょっと敏感、平均よりちょっと鈍感、って人たちがいっぱいいるってことです。

なので、自分は人よりちょっと過敏に反応するタイプかも?と自覚があるなら、その自分を大切に扱うこと。


片頭痛を引き起こしてしまうほど匂いに敏感な私は、まず、喫煙所の近く、香水の強い人、芳香剤のきつい場所、などには近寄らないようにしています。

人間関係も同じことが言えますね。

ストレスを感じるような相手とは距離を置き、必要以上に関わらない、近づかないことが必要。

何にしろ、「選べるものは選ぶ」というスタイルでいることです。


自分で自分の身を守るための対策を講じることは、別に、人に迷惑を掛けることでも何でもない。

なのに、「他人からどう思われるか?」などを気にして、自分の身を守る対策を講じることができずにストレスを抱えてしまう人って多い気がします。



私は去年、様々な出来事の中で、様々なソウルメイト達と学び合って痛感したことは、

「自分らしさを許す」ことの必要性、重要性でした。

「自分らしさを許す」ということは、

「他人とは違う自分」に対し、

「それでもいいんだ。それもアリなんだ。OKなんだ」と、

「許可をする」ことです。


人にはできることができないなら、それが「自分らしさ」でしょうし、人にはできないことができるのも、「自分らしさ」でしょう。

匂いに敏感なのも、人の言葉で傷つきやすいのも、「自分らしさ」。

不器用で料理が下手なのも、体力なくてすぐに疲れるのも、他人のために頑張り過ぎてしまうのも、全部、「自分らしさ」。

その「自分らしさ」を許し、守っていくことが、ストレスを抱えないための一番の方法です。


生きにくさを感じている人は、この「自分らしさ」に許可できていないことが多い傾向です。

「自分らしさ」は、ひとつやふたつではありませんから、まずは許可しやすいことからひとつずつ、許可してみてはどうでしょう?



私も今年は、まだ許可していない「自分らしさ」を見つけ、許可をし、自分らしく生活する1年にしたい。

その過程を綴るこのブログを、今年も楽しく読んでいただけたら幸いです。

ひとつ終わり、ひとつ始まる。ひとつ手放し、ひとつ前に進む。

今年も今日で終わりですね。

1年間、お疲れ様でした、と、自分に言ってあげたいところです。

2018年の最終日の今朝、私は1年の集大成とも言えるコミットメントをしました。

ここ数か月の自分の身に起こったこと、それに対しての自分のレスポンスを考え、自分が手放さないとならないことがハッキリしたので。


私は幼少期に、親から、自分が望む形での愛情がもらえませんでした。

その影響で、大人になってから、親からもらえなかった愛情の代わりを周囲に求める傾向です。

でも、そういう生き方は正しくない、不毛な行為なのだと理解できるようになりました。

ですが、人として生まれ、生きて、人から愛されたい、好かれたい、認められたい、求められたい、という欲求が消えたわけではありません。

それゆえ、迷走しては消耗するといった繰り返しをしているのだと思います。


相手と時間を共有し、その中で相手を知り、それが分かり合えない関係だと分かった時、私は傷つきます。

どんなに慕っても自分が想うほど相手からは想われないのだと分かった時、生きている価値などないのではないか?とさえ考えたりします。

けれども、「個性」というものは全ての人に存在するもので、それによる「相性」の良し悪しもまた存在するのです。

例え親子であっても、価値観の合わない者同士は上手くいかない。


そして、悲しいのは、自分の価値観と違う相手を、否定し、批判し、疎外しようとすること。

人間関係のトラブルは、こんな感じの原因から始まる気がします。

「価値観の違いを、どうするか?」

これが人間関係の課題なのでしょうね。


私は今朝、今まで関わっていた相手としばらく距離を置く覚悟を決めました。

価値観の溝が埋められず、これ以上一緒にいると争って傷つけあう結果にもなりかねないと判断したからです。



今年も、様々な出会いがあり、様々な別れがありました。

「どうして私は、人のと関係や物事が長続きしないんだろう?」

以前はそう自問してばかりいましたが、その理由も今になれば分かります。

私にとって、出逢って関わる人は、みんな、その時の学びを共有するソウルメイト。

ですから、学びが終われば速やかに解散、といった流れになるのだと思うのです。


「現状維持は、実は下降」と教えてくれた人がいますが、その通りだと思う事が最近多くて。

「上昇」を求めて生きるためには、「変化」は必要不可欠なものではないでしょうか?

なので、2018年の最後の最後に、ひとつの執着を手放し、「現状維持」ではなく「一歩前へ進む」ことを決めたのでした。


ひとつ終われば、ひとつ始まるでしょう。

人間は、執着を手放すごとに前に進む。

手放したものが大きければ大きいほど、次に手に入るものは、手放したもの以上の大きさのものだと思います。


時間は流れています。

動いています。

ですから、その流れに逆らわず、自分も変化を受け入れて生きる。

辛いことも悲しいことも、楽しいことも嬉しいことも、全部、その変化の流れの中にあります。

自分と向き合い、流れを止めている執着、心の枷となっている縛りに気づき、ひとつひとつ手放し、枷を外していく。

来年もこの作業を続けていくことを自分自身にコミットメントした、2018年の最終日。



とにかくとにかく、1年間、一生懸命に生きた自分に、「お疲れ様」を。

みなさまも、よいお年をお迎えくださいませ。

「家族が自分たちの生活を犠牲にして認知症の母親に関わっている」ことを伝える

先日、こんな本を買いました。

『人のために頑張りすぎて 疲れた時に読む本』

根本裕幸さんという心理カウンセラーの著書です。


この本を買った時の私は、ちょうど「お疲れメンタル」で、思わず引き寄せられるように手に取った感じでした。

でも、「え?けど私ってどっちかっていうと自己チューだし、人のために頑張りすぎて、って感じじゃないんだけど?」って思ったんですよ。

それでも、このタイトルに魅かれて買ったのは確か。

そして、買って帰ったその晩、一気に最後まで読みました。


買った時には「え?けど私ってどっちかっていうと自己チューだし、人のために頑張りすぎて、って感じじゃないんだけど?」 って思ったのに、いやいや、「え?まるで私?」って感じ(笑)

自分の姿が書かれている、自分が言いたいことが代弁されているようで驚きましたよ。

私は自分が抱えている問題を目の当たりにし、同時にその解決も手に入れた気がしたのです。

そこで、この本に書かれていたことを、実践してみたのでした。


私がしたのは、「自分の価値を言葉にして伝える」こと。

それは、以前からずっと自分を苦しめていた「いい顔して人のために動いて損をする」という部分を何とかしたかったから。

「犠牲になって被害者にならないようにしよう」とは思っていても、そのやり方はまだまだ足りていなかったと分かりました。



本を読んだ翌日、今度母親が入所することになった施設から電話があったのです。

施設の担当者から、年明け7日の週に受け入れたいと。

しかし、7日からは仕事や学校が始まってしまうため、一瞬、どうしようか?と考えて……

私はこう言いました。

「本当は12月中に移動する予定だったんですよね。

でも、今いる施設で早く対応してくれなかったので、年明けでも仕方ないですね。

ですが、年明けで7日以降ってことになると、仕事も学校も始まってしまいます。

妹に会社を休ませるわけにいきませんし、子供たちも学校が始まるので頼めない。

私は会社を休まないとなりませんが。

でも、7日だったら、子供たちが始業式だけで帰宅するので、午後からでしたら手伝ってもらえます」


母親の施設転居に関しては、本来ならば今月初旬には完了している予定でした。

しかし、想定外のトラブルで遅くなってしまった上に、新しい施設への入所は、年末年始はダメ、土日はダメ、とされ、家族が施設側に合わせなければならないことに。


私は、「家族だったら、病気の家族を優先すべき。病気や高齢の家族の面倒を看るべき」という考えが嫌いです。

家族だから、長女だから、と、自分自身の生活の全てを犠牲にしてまで親の介護をする気はありません。

でも、今だからこう言えるのあって、数年前までの私には、こうは言えませんでした。


こういってはなんですが、親の看護や介護を通じて、医療や介護の現場では「家族がすべきだ」とする傾向の部分が多いような気がしました。

では、家族がいない病気の高齢者はどうするのか?

家族が県外在住などで近くに住んでいない場合はどうするのか?

近くに住む家族がいる、介護や看護をする家族がいる、となると、行政を始め医療機関や介護施設は、家族が犠牲を払わなければならないような方向性に向けたがる。

ですから私は、「家族にも自分たちの生活がある」ことを言いたかったのです。

施設への受け入れが、年末年始はダメ、土日はダメ、ということになると、施設側の要求だけが優先されることになり、母親を転居させる側の家族は、仕事を休まないとなりません。

だからせめて、そういう事情が存在していることだけは伝えたかった。

家族側も、自分たちの生活を犠牲にして認知症の母親に関わっているのだと。



私はこの本を読み、今までの自分の概念を180°ひっくり返された気がしました。

なぜって、こうして自分の都合を相手に伝えることは、「言い訳」「余計なこと」のように思っていたからです。

「え?言っていいの?だって、そんなの言い訳じゃん?余計なことじゃないの?」

私のバーバル(言語)コミュニケーションは、「結論を伝える」ことを優先し、そこにおけるプロセスを省く傾向でした。

もともと話の構築が下手くそで、まとまりがなく、独りよがりの伝え方になってしまうと自覚がありましたから。

この本を読まなければおそらく、母親の転居先施設の担当者に「では、受け入れは7日の午後でお願いします」とだけ、言ったでしょう。

けれども、ただそれだけ言ったのでは、「家族が自分の生活を犠牲にして認知症の母親に関わっている」ことは伝わりませんよね?

それどころか、「あの家の人たちは、いつでもOK」なんて、まるで暇しているみたいに思われてしまうかも。




私は今まで公私ともに、少々無理なことも、かなり無理なことも、「いいよ。大丈夫」と安請け合いする傾向でした。

ですが、それをしてしまうと、多少なりとも無理している自分の事情は、相手には伝わらないのですね。

ですから、そこはホントのことを伝え、多少なりとも無理があることを相手に伝えるべきだと思います。


そして、こうして自分の事情を相手に伝えるようになると、「ご機嫌取り」や「偽善」「補償行為(罪悪感などから行う行為)」ですることが減ると思うのです。

世の中には、「人が当然やってくれるもの」と思っている人は山ほどいて、そういう人こそ、こちらの事情など考えていない、気づこうともしていない。

そんな人たちに、自分の大切な時間や労力を、どうして好き好んで与えますか?

そういう人たちに対して、「ご機嫌取り」や「偽善」、「補償行為」で行うから、「犠牲」になるのでは?


相手の要求を受け入れることで、自分が抱えるデメリット、リスクなどの事情を、ちゃんと相手に伝える。

周囲の人たちに伝える。

これって必要なことなのですね。

久々に良い本に出逢えました。

オススメです♪

「できる自分」を認めて、他人をあてにしたり期待をしない

私事ですが、少し前から、認知症の母親のことでけっこうゴタゴタしていました。

そのせいでメンタルも不安定になり、ちょっと辛かった日が続いたのですけど。

なんとか復活して今は絶好調。

ここに至るには、「自分のやり方(自分スタイル)」と、「できる自分」を思い出して認めた自分がいました。


2年間精神病院に入院していた母親が現在の施設に入所し、たった4ヶ月で退所する羽目になったこと。

それは、いったい私の何かいけなくてこうなったのか?

考えないわけにはいきませんでした。

同じ失敗は繰り返したくない。

だから、ちゃんと自分と向き合って答えを見つけたかった。

そこで、気づいたのです。

「辛いことは自分だけで抱えずに人を頼ろう」と、自分自身に言い聞かせてきたのですが、それがいつの間にか、「辛いことは自分だけで抱えずに人を頼らないといけない」とする「縛り」になっていたことに。


元々の私は、「人を頼らない」性分です。

人を頼れない状態で生きてきた、とも言えるでしょう。

人やネットから知恵を借りることはあっても、手を貸してもらえることはない。

特に家庭の中では、人間相手でもペット相手でも、「労働力が自分しかない」といった状態で生きてきました。


私は、そうやって「ひとりで対処してきた自分」を思い出しました。

そして同時に「ひとりで対処できた自分」の存在も。

……そうだった。

私、できるんだった。

ちゃんとひとりで結果が出せるんだった。

なのに、何を甘えたこと言ってたんだろ?


さらに気づいたことは……

私にとって「人を頼る」という目的が、いつしか「人をあてにする」になり、その結果「(その相手に)期待する」になっていたことでした。


人をあてにしたり期待したりすれば、その通りにならなかった時に、ガッカリ感や怒りが発生するでしょう。

いつも自分ひとりで物事に取り組んできた私には、「誰も助けてくれない。自分だけで対処しないとならない」といったプレッシャーや孤独感はありました。

しかし、誰も助けてくれないのが当たり前だという諦め感があったためか、人をあてにする、期待するなどの結果として起こる、ガッカリ感や怒りは無かったと思います。



今日このブログで伝えたいことは、「人を頼らずに何でもひとりで対処しろ」ではありません。

人を頼らなくても「できる自分」を認めて、「自信を持つ」こと。

そして、「自立」した人間は、人を頼りながらも、「あてにしない」「期待しない」こと、です。



人にはそれぞれ「自分のやり方」というものがありますから、ひとり仕事の方が向いている人が他人と作業しようとすると、問題が起こりがちです。

ですから、人を頼らずに自分ひとりで頑張る方がいいことと、人を頼って助けてもらいながら頑張る方がいいことと、使い分けたらいいと思います。

それに、「人をあてにする」「人に期待する」は、すでに「依存」の域。

物事には主体性を持って取り組み、それぞれの役割の責任を負うことを考えて行動できたらいいですね。


大丈夫。

ちゃんとひとりでも、できるから。

そして、誰かと一緒の時には、あてにしない。期待しない。