それって話し合い?パートナー相手の独りよがりな要求

パートナー間の問題を相談される時に決まって私が言うことは、「二人でよく話し合ってください」なのですが。

話し合って解決できるならカウンセリングになんて来ないよ、と言わんばかりに、「もう何度も話し合ってきました」とか、「(相手が)話を聞いてくれないです」とか、言われます。

でもね、「じゃあ、どんな風に話し合いをしたのか?」を訊いてみると、「え?それって話し合いじゃないでしょ?」というケースが実に多い。

とある30代の女性は家事分担がきっかけで、パートナーの男性との関係性が悪くなったそうです。

そこで女性は、男性に話し合いを求めました。

でも、「君とはもう話をしたくない」と拒絶された。

え?なんてひどい男性なんだ、話し合いしたいと言ってるのに… 

でしょうか?

いやいや、実はこの男性の気持ちもわかるのです。

この女性、「話し合いを」と言っていたけれど、彼女が実際にしていたことは、パートナーを「責める」ことだった。

「話し合い」というのは、より良い未来のために、お互いの気持ちや事情を伝え合うコミュニケーションですよね?

なのに、彼女が「話し合い」だと言ってパートナーにしていたことは、「私ばかりが家事をしている!」といった、「クレーム」でした。

これじゃあ、「君とはもう話をしたくない」と言われても仕方ないでしょう。

彼女は「どうして家事をしてくれないの!?」とパートナーに質問します。

そこでパートナーはパートナーなりの答えを言う。

でも彼女は、その答えを受け入れようとしない。

なぜって、そりゃ、そうでしょ。

彼女はすでに、自分の中に答え(目的)を持っていて、それ以外の答えは答えとして扱わないんですもん。

彼女の目的は、家事を分担すること。

自分ばかりに家事をさせる、とパートナーからの謝罪も求めています。

相手を自分の思い通りにしようとする「話し合い」なんて、「話し合い」ではないと思いますが。

自分の要求ばかりを押し付ける行為は、いい大人のすることではないのでは?

「話し合い」が成功するか否か?は、お互いの気持ちを伝え合い、現実的な状況を理解し合って、良い方向にもっていくようができるかどうか?ですね。

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人間には長所と短所の両方が同時に存在している

とある夫婦がついに離婚するかも?という話を聞きました。

子供もいないし少し前から別居していたから、間違いなく離婚するよね~、なんて噂話のネタにしてしまいましたが。

どうしてそうなったか?と考えると、お互いに、相手が思い通りにならないから、のようです。

また、とあるセラピストのブログとホームページを拝見する機会がありました。

内容に対しては、うーーーん、って感じでした。

だって、いいことばかり書いてあって、なんだか嘘くさいんですもん。


物事には、長所と短所の両方が同時に存在しています。

それは、絶対、です。

長所しかない、短所しかない、なんてもの、無いんですよ。

そして、その長所と短所は、全く同じものです。

それらをどの方向から見るか?によって、それを長所とするか、短所とするか、になります。

人間関係のトラブルを引き起こす原因で多いのは、「相手に期待すること」です。

でもそれは、相手の「長所だけしか認めない」とする、自分勝手な押し付けではないでしょうか?

相手を見るのと同時に、自分自身も見る。

そこには、短所だらけのダメ人間がいますか?

それとも、長所しかない、素晴らしい人間がいますか?

人と関わる時、相手のどこを見るか?評価するか?

自分をモノサシにして、自分が好きなところだけを見たい、自分の好きなところだけが存在する人がいい、なんて考えていると、誰ともうまくはいかないはず。

薬に副作用があるように、人間にも短所がある。

そして、人によって薬の効き方が違うように、その短所も、人によって評価は様々です。

相手に対して、その長所だけ欲しい、いいところだけで関わりたい、なんて考えていないかどうか?

片面からだけでなく、両面を見て、それがその人なんだ、と、まずは確認したい。

そのうえで、相手のいいところ(自分にとって都合のいいところ)を選んで付き合えばいいのです。

ただし、「これだけはどうしても受け入れられない」という部分は、あって当然。

ですので、「これだけは絶対嫌だ!」というものが無い相手に限りますが。

「いいところしかない人」なんて、この世にはいない。

それを知っていて人と関わると、ストレスはかなり減る気がしますよ~

「子供が引きこもり」「子供が宿題をしない」 自分の問題と他人の問題がごっちゃになってしまう人は

私の行うメンタルケアセッションの目的は、私との対話を通して、相談者に自分と向き合ってもらうことです。

その結果として相談者は、自身が抱えている問題の解決を見出します。

「問題も問題解決(答え)も自分の中にある」

というのが私の基本理念であり、問題の原因を自分の外側に置いている限り、解決も無いな、と思っています。



よくありがちなケースで、自分の問題を他人のせいにして、他人を変えようとする相談者がいること。

実際、過去には、「子供が引きこもっている」「妻が子供に無関心」「親がパチンコばかり行っている」などの相談を受けたことがあります。

中でも「子供が引きこもり」での相談は、けっこうありました。

でも、ちょっと考えてほしいのは、この相談者たちが望んでいることです。

この人たちはみんな、相手(子供、妻、親など)が自分の思い通りにならないことで困っているんですよね?

引きこもりや子供への無関心、パチンコなどを、「やめてもらいたい」と思っていて、それは全て、自分以外の人がしていることでしょ?

それを、「どうしたらやめさせることができますか?」と相談に来られても、できるアドバイスは何もない。

そこでいつも言うのは、「私にとってのクライアント(相談者)はあなた自身なので、これはあなたの問題として扱います」なのです。

もし、引きこもっている子供本人が困っているなら、その本人からお話をお聴きしましょう。

でも、この場にいない人のことを話されても、私には想像の範囲でしか扱えません。


ここで、この相談者たちに訊きたいのは、

子供が引きこもっていると、(あなたは)なぜ困るのか?

妻が子供に無関心だと、(あなたは)なぜ困るのか?

親がパチンコばかりしていると、(あなたは)なぜ困るのか?

ですね。

もっと嫌な言い方をすると、「なぜそれを問題だと思うのか?」です。


こういう質問をするとほとんどの人が、「だって、本人が困るでしょう?」と答えます。

「子供が宿題をしなくて困っています」と相談に来られたお母さんにこの質問をしたところ、「だって、出された宿題をするのは当たり前で、先生に怒られたら本人が困るでしょ?」とのことでした。

しかし、話をしていくうちに、このお母さんの心には「(子供の)担任の先生に、(子供に宿題もさせられない)ダメな親だと思われたくない」とする「闇」があったことが分かりました。


こんな感じで、家族のことを問題にして相談に来られる人には、「家族がちゃんとしていないことを自分の責任として捉えてしまう」といった傾向があります。

ですから、家族とは言え自分以外の人のことなのに、自分が困ってしまうのでしょうね。

でも何度も言いますが、「他人を何とかしたい」は無理なので、諦めましょう。


問題も、問題解決も、自分の中にあります。

なので、いかに早く、抱えているストレスや悩みを「自分の問題」だと気づけるか?

いかに早く、「じゃあどうしたらいいのか?」を考えられるか?

それがミソ。

自分のストレスや悩み、迷いを、他人のせいにしている間は、何も解決しません。

全て自分のこととして捉えて、逃げずに自分と向き合うことが、悩みを解決してストレスを手放す近道なのです。

「できない」と伝えた、その後

先々週、「イエスマンをやめた」私でしたが。

その後どうなったか?を書きたいと思います。

…そうですね。

ちょっと想定外の方向に行った、という感じでしょうか。


先日、職場の上司に呼ばれて言われたことは、期間を指定されてのスキルアップ要求でした。

「できません」→「やりません」ではなく、「今はできなくてもいいので、いずれできるようにスキルアップしてください」だったのです。

そして上司は、私が「できない」と申し出た部分について、その場で時間を取って丁寧に指導してくれました。

「即戦力」で雇用されることが一般的である派遣社員には、企業側からの「教育」という部分は期待できません。

私も長く派遣社員をしていますが、パソコンスキルはパソコンスクールで学びましたし、検定試験も自費で受験、仕事で使う資料(本など)も全て自費で購入するのが当たり前、というスタイルでした。

ですから、上司(しかも役職のある)に直接指導してもらえたなんて、本当に嬉しかったです。

さらに驚いたのは、職場の社員たちに対して、私が十分に仕事できない間は無理に仕事を振らないよう、会議の場で言ってもらえたこと。

例え専門職でも、他の企業で働いてきた私には、今の職場のルールで動くのには時間を必要とします。

自分たち社員はずっとその職場にいるわけですから、外から来た私の混乱状態が理解できるはずもなく、「知ってて当たり前」とばかりに、自分たちの職場ルールで仕事を振ってくるんですよね。

そこが一気に改善されたおかげで、その後の私は仕事だけに集中できる環境を手に入れたわけです。



私は、「できない」を言ったことで、「できない」→「やらなくていい」か、「できない」→「クビ」か、そのどちらかの選択肢しか持っていなかった。

なので、「この部分まではスキルアップしてください」と言われたことにはホントに驚きでしたし、

「歩み寄る」とはこういうことなんだ、と理解できたのです。


人間関係もそうですが、私は、白か黒か、の2択の選択で生きてきた気がします。

そう考えると、もう、そういった自分スタイルを変える時に来たのだな、と思うわけで。



心理学では、人間関係についての例え話に「ヤマアラシのジレンマ」というものがあります。

これは、鋭い針毛を持つヤマアラシは、相手に近づくと自分の体の針毛で相手を傷つけてしまうから近づけない、というジレンマがあるのですが、

2匹のヤマアラシが寒い日に温め合おうと、ちょうどよい距離を見つけて体を寄せ合う、というお話です。


人間関係はこういうことなのでしょうね。

お互いにちょうどよい距離を探すのは、なかなか難しい。

でも、その努力を怠っては、人間関係の構築もないのかもしれません。

私は職場での自分の状態がまさにこの2匹のヤマアラシだったと知り、歩み寄ってもらえた職場側に大いに感謝いたしました。


今回、「自分の事情や気持ちを大切にする」ことから始まり、それを「相手に伝える」ことで、結果的にピンチを乗り越えることができました。

「イエスマンをやめる」ことは、長年イエスマンとして生きてきた人にとって、とても勇気のいるチャレンジになるでしょう。

「恐怖」との戦いになるはずです。

ですが、私自身、できないことをできないと「言ってよかった」と思っています。

もし思うような結果が出ずとも、それまで抱えていたモヤモヤは無くなるわけですし。

動けば必ず結果がついてきますから、次に進む腹もくくれる。



私はこういうことを自分自身で体験してみて、「出る結果」が云々よりも、ストレスを抱えている間のモヤモヤの方が問題だと思いました。

「結果が出る」ことは、怖いですよね。

でも、結果を出さずにモヤモヤしていることは、メンタルを疲労消耗させてしまう。

だったら、抱えている問題を終わらせることを考えるべきだ、と思います。


結果にこだわっていたら、いつまでも動けません。

ですので、相手があることは、まず相手に伝えてみるといった行動をオススメします。

グレーな解決。曖昧なままでいることもアリ

相性が悪い相手は、どこにでもいます。

どうやっても理解し合えない、常に不満だけを抱える相手。

それが他人であり、「取り換えることができる相手」ならいいのですが、親子や兄弟姉妹などの血縁者は、取り換えることができない厄介な関係です。


私は母親が嫌いです。

母親には私自身を理解してもらえず、どんなに尽くしても愛されることのない相手でしたから。

でも、そんな母親が認知症になり、もう、誰のことも分からなくなった今、それでも憎しみは消えない。

親子であるがゆえに、この感情から解放されずにいるのです。


私は短気だし、物事は白黒つけたがる性分です。

何より、自分が納得しないと動けないタイプで、その方向性を定めるために、相手と深く関わろうとして失敗します。

相手の本質を知ることで、「どう関わるか?」を決める。

そういう人間関係の構築の仕方をしてきました。

しかし、ここ最近、それは損なことでもあるな、と気づいたのです。


「白黒つける」ということは、「関わるか、関わらないか」のどちらかにするということ。

ですが、相手が血縁者の場合、「関わらない」が難しくなります。

どんなに嫌いでも憎くても、介護が必要な母親を放置するわけにはいかない。

なので私は、自分のコミュニケーションスタイルを、ひとつ増やすことに。


私の「白黒つける」は、「感情」によるものです。

「好きか、嫌いか」で、決める。

でも、それだけのコミュニケーションではうまくいかないので、その「白」と「黒」の間の「グレー」を取り入れることにしました。

「白でもなく、黒でもない」=「グレー」な関係。

それはとても曖昧で、少々居心地悪い感じですが。


しかし、人間関係なんて、この「グレー」がほとんどなんだと思います。

そこにある感情を無視したり、抑圧したりしろ、というわけではありません。

「嫌い」なら嫌いでいいのです。

「分かり合えない」なら分かり合えないでいいのです。

その「嫌い」なまま、「分かり合えない」まま、そのままで関わる。


「心」を脇に置いて関わることは、最初はちょっと大変でしょう。

ですが、そこも訓練でなんとかなるもの。



私はわりと二面性があり、「心」を脇に置いて顔だけ笑うことが得意です。

いつも正直な自分のままでいると疲れてしまうことも事実ですし、悪意を放ってくる相手から身を守るには、「演技」も必要だと思います。

自分の「心」まで騙すのではなく、相手だけ騙す。

こうして、グレーなまま、「タテマエ」を使ってうまく関わり続けることは、社会人として必要なスキルなのかもしれないって思います。

「家族が自分たちの生活を犠牲にして認知症の母親に関わっている」ことを伝える

先日、こんな本を買いました。

『人のために頑張りすぎて 疲れた時に読む本』

根本裕幸さんという心理カウンセラーの著書です。


この本を買った時の私は、ちょうど「お疲れメンタル」で、思わず引き寄せられるように手に取った感じでした。

でも、「え?けど私ってどっちかっていうと自己チューだし、人のために頑張りすぎて、って感じじゃないんだけど?」って思ったんですよ。

それでも、このタイトルに魅かれて買ったのは確か。

そして、買って帰ったその晩、一気に最後まで読みました。


買った時には「え?けど私ってどっちかっていうと自己チューだし、人のために頑張りすぎて、って感じじゃないんだけど?」 って思ったのに、いやいや、「え?まるで私?」って感じ(笑)

自分の姿が書かれている、自分が言いたいことが代弁されているようで驚きましたよ。

私は自分が抱えている問題を目の当たりにし、同時にその解決も手に入れた気がしたのです。

そこで、この本に書かれていたことを、実践してみたのでした。


私がしたのは、「自分の価値を言葉にして伝える」こと。

それは、以前からずっと自分を苦しめていた「いい顔して人のために動いて損をする」という部分を何とかしたかったから。

「犠牲になって被害者にならないようにしよう」とは思っていても、そのやり方はまだまだ足りていなかったと分かりました。



本を読んだ翌日、今度母親が入所することになった施設から電話があったのです。

施設の担当者から、年明け7日の週に受け入れたいと。

しかし、7日からは仕事や学校が始まってしまうため、一瞬、どうしようか?と考えて……

私はこう言いました。

「本当は12月中に移動する予定だったんですよね。

でも、今いる施設で早く対応してくれなかったので、年明けでも仕方ないですね。

ですが、年明けで7日以降ってことになると、仕事も学校も始まってしまいます。

妹に会社を休ませるわけにいきませんし、子供たちも学校が始まるので頼めない。

私は会社を休まないとなりませんが。

でも、7日だったら、子供たちが始業式だけで帰宅するので、午後からでしたら手伝ってもらえます」


母親の施設転居に関しては、本来ならば今月初旬には完了している予定でした。

しかし、想定外のトラブルで遅くなってしまった上に、新しい施設への入所は、年末年始はダメ、土日はダメ、とされ、家族が施設側に合わせなければならないことに。


私は、「家族だったら、病気の家族を優先すべき。病気や高齢の家族の面倒を看るべき」という考えが嫌いです。

家族だから、長女だから、と、自分自身の生活の全てを犠牲にしてまで親の介護をする気はありません。

でも、今だからこう言えるのあって、数年前までの私には、こうは言えませんでした。


こういってはなんですが、親の看護や介護を通じて、医療や介護の現場では「家族がすべきだ」とする傾向の部分が多いような気がしました。

では、家族がいない病気の高齢者はどうするのか?

家族が県外在住などで近くに住んでいない場合はどうするのか?

近くに住む家族がいる、介護や看護をする家族がいる、となると、行政を始め医療機関や介護施設は、家族が犠牲を払わなければならないような方向性に向けたがる。

ですから私は、「家族にも自分たちの生活がある」ことを言いたかったのです。

施設への受け入れが、年末年始はダメ、土日はダメ、ということになると、施設側の要求だけが優先されることになり、母親を転居させる側の家族は、仕事を休まないとなりません。

だからせめて、そういう事情が存在していることだけは伝えたかった。

家族側も、自分たちの生活を犠牲にして認知症の母親に関わっているのだと。



私はこの本を読み、今までの自分の概念を180°ひっくり返された気がしました。

なぜって、こうして自分の都合を相手に伝えることは、「言い訳」「余計なこと」のように思っていたからです。

「え?言っていいの?だって、そんなの言い訳じゃん?余計なことじゃないの?」

私のバーバル(言語)コミュニケーションは、「結論を伝える」ことを優先し、そこにおけるプロセスを省く傾向でした。

もともと話の構築が下手くそで、まとまりがなく、独りよがりの伝え方になってしまうと自覚がありましたから。

この本を読まなければおそらく、母親の転居先施設の担当者に「では、受け入れは7日の午後でお願いします」とだけ、言ったでしょう。

けれども、ただそれだけ言ったのでは、「家族が自分の生活を犠牲にして認知症の母親に関わっている」ことは伝わりませんよね?

それどころか、「あの家の人たちは、いつでもOK」なんて、まるで暇しているみたいに思われてしまうかも。




私は今まで公私ともに、少々無理なことも、かなり無理なことも、「いいよ。大丈夫」と安請け合いする傾向でした。

ですが、それをしてしまうと、多少なりとも無理している自分の事情は、相手には伝わらないのですね。

ですから、そこはホントのことを伝え、多少なりとも無理があることを相手に伝えるべきだと思います。


そして、こうして自分の事情を相手に伝えるようになると、「ご機嫌取り」や「偽善」「補償行為(罪悪感などから行う行為)」ですることが減ると思うのです。

世の中には、「人が当然やってくれるもの」と思っている人は山ほどいて、そういう人こそ、こちらの事情など考えていない、気づこうともしていない。

そんな人たちに、自分の大切な時間や労力を、どうして好き好んで与えますか?

そういう人たちに対して、「ご機嫌取り」や「偽善」、「補償行為」で行うから、「犠牲」になるのでは?


相手の要求を受け入れることで、自分が抱えるデメリット、リスクなどの事情を、ちゃんと相手に伝える。

周囲の人たちに伝える。

これって必要なことなのですね。

久々に良い本に出逢えました。

オススメです♪

「できる自分」を認めて、他人をあてにしたり期待をしない

私事ですが、少し前から、認知症の母親のことでけっこうゴタゴタしていました。

そのせいでメンタルも不安定になり、ちょっと辛かった日が続いたのですけど。

なんとか復活して今は絶好調。

ここに至るには、「自分のやり方(自分スタイル)」と、「できる自分」を思い出して認めた自分がいました。


2年間精神病院に入院していた母親が現在の施設に入所し、たった4ヶ月で退所する羽目になったこと。

それは、いったい私の何かいけなくてこうなったのか?

考えないわけにはいきませんでした。

同じ失敗は繰り返したくない。

だから、ちゃんと自分と向き合って答えを見つけたかった。

そこで、気づいたのです。

「辛いことは自分だけで抱えずに人を頼ろう」と、自分自身に言い聞かせてきたのですが、それがいつの間にか、「辛いことは自分だけで抱えずに人を頼らないといけない」とする「縛り」になっていたことに。


元々の私は、「人を頼らない」性分です。

人を頼れない状態で生きてきた、とも言えるでしょう。

人やネットから知恵を借りることはあっても、手を貸してもらえることはない。

特に家庭の中では、人間相手でもペット相手でも、「労働力が自分しかない」といった状態で生きてきました。


私は、そうやって「ひとりで対処してきた自分」を思い出しました。

そして同時に「ひとりで対処できた自分」の存在も。

……そうだった。

私、できるんだった。

ちゃんとひとりで結果が出せるんだった。

なのに、何を甘えたこと言ってたんだろ?


さらに気づいたことは……

私にとって「人を頼る」という目的が、いつしか「人をあてにする」になり、その結果「(その相手に)期待する」になっていたことでした。


人をあてにしたり期待したりすれば、その通りにならなかった時に、ガッカリ感や怒りが発生するでしょう。

いつも自分ひとりで物事に取り組んできた私には、「誰も助けてくれない。自分だけで対処しないとならない」といったプレッシャーや孤独感はありました。

しかし、誰も助けてくれないのが当たり前だという諦め感があったためか、人をあてにする、期待するなどの結果として起こる、ガッカリ感や怒りは無かったと思います。



今日このブログで伝えたいことは、「人を頼らずに何でもひとりで対処しろ」ではありません。

人を頼らなくても「できる自分」を認めて、「自信を持つ」こと。

そして、「自立」した人間は、人を頼りながらも、「あてにしない」「期待しない」こと、です。



人にはそれぞれ「自分のやり方」というものがありますから、ひとり仕事の方が向いている人が他人と作業しようとすると、問題が起こりがちです。

ですから、人を頼らずに自分ひとりで頑張る方がいいことと、人を頼って助けてもらいながら頑張る方がいいことと、使い分けたらいいと思います。

それに、「人をあてにする」「人に期待する」は、すでに「依存」の域。

物事には主体性を持って取り組み、それぞれの役割の責任を負うことを考えて行動できたらいいですね。


大丈夫。

ちゃんとひとりでも、できるから。

そして、誰かと一緒の時には、あてにしない。期待しない。