「できない」と伝えた、その後

先々週、「イエスマンをやめた」私でしたが。

その後どうなったか?を書きたいと思います。

…そうですね。

ちょっと想定外の方向に行った、という感じでしょうか。


先日、職場の上司に呼ばれて言われたことは、期間を指定されてのスキルアップ要求でした。

「できません」→「やりません」ではなく、「今はできなくてもいいので、いずれできるようにスキルアップしてください」だったのです。

そして上司は、私が「できない」と申し出た部分について、その場で時間を取って丁寧に指導してくれました。

「即戦力」で雇用されることが一般的である派遣社員には、企業側からの「教育」という部分は期待できません。

私も長く派遣社員をしていますが、パソコンスキルはパソコンスクールで学びましたし、検定試験も自費で受験、仕事で使う資料(本など)も全て自費で購入するのが当たり前、というスタイルでした。

ですから、上司(しかも役職のある)に直接指導してもらえたなんて、本当に嬉しかったです。

さらに驚いたのは、職場の社員たちに対して、私が十分に仕事できない間は無理に仕事を振らないよう、会議の場で言ってもらえたこと。

例え専門職でも、他の企業で働いてきた私には、今の職場のルールで動くのには時間を必要とします。

自分たち社員はずっとその職場にいるわけですから、外から来た私の混乱状態が理解できるはずもなく、「知ってて当たり前」とばかりに、自分たちの職場ルールで仕事を振ってくるんですよね。

そこが一気に改善されたおかげで、その後の私は仕事だけに集中できる環境を手に入れたわけです。



私は、「できない」を言ったことで、「できない」→「やらなくていい」か、「できない」→「クビ」か、そのどちらかの選択肢しか持っていなかった。

なので、「この部分まではスキルアップしてください」と言われたことにはホントに驚きでしたし、

「歩み寄る」とはこういうことなんだ、と理解できたのです。


人間関係もそうですが、私は、白か黒か、の2択の選択で生きてきた気がします。

そう考えると、もう、そういった自分スタイルを変える時に来たのだな、と思うわけで。



心理学では、人間関係についての例え話に「ヤマアラシのジレンマ」というものがあります。

これは、鋭い針毛を持つヤマアラシは、相手に近づくと自分の体の針毛で相手を傷つけてしまうから近づけない、というジレンマがあるのですが、

2匹のヤマアラシが寒い日に温め合おうと、ちょうどよい距離を見つけて体を寄せ合う、というお話です。


人間関係はこういうことなのでしょうね。

お互いにちょうどよい距離を探すのは、なかなか難しい。

でも、その努力を怠っては、人間関係の構築もないのかもしれません。

私は職場での自分の状態がまさにこの2匹のヤマアラシだったと知り、歩み寄ってもらえた職場側に大いに感謝いたしました。


今回、「自分の事情や気持ちを大切にする」ことから始まり、それを「相手に伝える」ことで、結果的にピンチを乗り越えることができました。

「イエスマンをやめる」ことは、長年イエスマンとして生きてきた人にとって、とても勇気のいるチャレンジになるでしょう。

「恐怖」との戦いになるはずです。

ですが、私自身、できないことをできないと「言ってよかった」と思っています。

もし思うような結果が出ずとも、それまで抱えていたモヤモヤは無くなるわけですし。

動けば必ず結果がついてきますから、次に進む腹もくくれる。



私はこういうことを自分自身で体験してみて、「出る結果」が云々よりも、ストレスを抱えている間のモヤモヤの方が問題だと思いました。

「結果が出る」ことは、怖いですよね。

でも、結果を出さずにモヤモヤしていることは、メンタルを疲労消耗させてしまう。

だったら、抱えている問題を終わらせることを考えるべきだ、と思います。


結果にこだわっていたら、いつまでも動けません。

ですので、相手があることは、まず相手に伝えてみるといった行動をオススメします。

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グレーな解決。曖昧なままでいることもアリ

相性が悪い相手は、どこにでもいます。

どうやっても理解し合えない、常に不満だけを抱える相手。

それが他人であり、「取り換えることができる相手」ならいいのですが、親子や兄弟姉妹などの血縁者は、取り換えることができない厄介な関係です。


私は母親が嫌いです。

母親には私自身を理解してもらえず、どんなに尽くしても愛されることのない相手でしたから。

でも、そんな母親が認知症になり、もう、誰のことも分からなくなった今、それでも憎しみは消えない。

親子であるがゆえに、この感情から解放されずにいるのです。


私は短気だし、物事は白黒つけたがる性分です。

何より、自分が納得しないと動けないタイプで、その方向性を定めるために、相手と深く関わろうとして失敗します。

相手の本質を知ることで、「どう関わるか?」を決める。

そういう人間関係の構築の仕方をしてきました。

しかし、ここ最近、それは損なことでもあるな、と気づいたのです。


「白黒つける」ということは、「関わるか、関わらないか」のどちらかにするということ。

ですが、相手が血縁者の場合、「関わらない」が難しくなります。

どんなに嫌いでも憎くても、介護が必要な母親を放置するわけにはいかない。

なので私は、自分のコミュニケーションスタイルを、ひとつ増やすことに。


私の「白黒つける」は、「感情」によるものです。

「好きか、嫌いか」で、決める。

でも、それだけのコミュニケーションではうまくいかないので、その「白」と「黒」の間の「グレー」を取り入れることにしました。

「白でもなく、黒でもない」=「グレー」な関係。

それはとても曖昧で、少々居心地悪い感じですが。


しかし、人間関係なんて、この「グレー」がほとんどなんだと思います。

そこにある感情を無視したり、抑圧したりしろ、というわけではありません。

「嫌い」なら嫌いでいいのです。

「分かり合えない」なら分かり合えないでいいのです。

その「嫌い」なまま、「分かり合えない」まま、そのままで関わる。


「心」を脇に置いて関わることは、最初はちょっと大変でしょう。

ですが、そこも訓練でなんとかなるもの。



私はわりと二面性があり、「心」を脇に置いて顔だけ笑うことが得意です。

いつも正直な自分のままでいると疲れてしまうことも事実ですし、悪意を放ってくる相手から身を守るには、「演技」も必要だと思います。

自分の「心」まで騙すのではなく、相手だけ騙す。

こうして、グレーなまま、「タテマエ」を使ってうまく関わり続けることは、社会人として必要なスキルなのかもしれないって思います。

「家族が自分たちの生活を犠牲にして認知症の母親に関わっている」ことを伝える

先日、こんな本を買いました。

『人のために頑張りすぎて 疲れた時に読む本』

根本裕幸さんという心理カウンセラーの著書です。


この本を買った時の私は、ちょうど「お疲れメンタル」で、思わず引き寄せられるように手に取った感じでした。

でも、「え?けど私ってどっちかっていうと自己チューだし、人のために頑張りすぎて、って感じじゃないんだけど?」って思ったんですよ。

それでも、このタイトルに魅かれて買ったのは確か。

そして、買って帰ったその晩、一気に最後まで読みました。


買った時には「え?けど私ってどっちかっていうと自己チューだし、人のために頑張りすぎて、って感じじゃないんだけど?」 って思ったのに、いやいや、「え?まるで私?」って感じ(笑)

自分の姿が書かれている、自分が言いたいことが代弁されているようで驚きましたよ。

私は自分が抱えている問題を目の当たりにし、同時にその解決も手に入れた気がしたのです。

そこで、この本に書かれていたことを、実践してみたのでした。


私がしたのは、「自分の価値を言葉にして伝える」こと。

それは、以前からずっと自分を苦しめていた「いい顔して人のために動いて損をする」という部分を何とかしたかったから。

「犠牲になって被害者にならないようにしよう」とは思っていても、そのやり方はまだまだ足りていなかったと分かりました。



本を読んだ翌日、今度母親が入所することになった施設から電話があったのです。

施設の担当者から、年明け7日の週に受け入れたいと。

しかし、7日からは仕事や学校が始まってしまうため、一瞬、どうしようか?と考えて……

私はこう言いました。

「本当は12月中に移動する予定だったんですよね。

でも、今いる施設で早く対応してくれなかったので、年明けでも仕方ないですね。

ですが、年明けで7日以降ってことになると、仕事も学校も始まってしまいます。

妹に会社を休ませるわけにいきませんし、子供たちも学校が始まるので頼めない。

私は会社を休まないとなりませんが。

でも、7日だったら、子供たちが始業式だけで帰宅するので、午後からでしたら手伝ってもらえます」


母親の施設転居に関しては、本来ならば今月初旬には完了している予定でした。

しかし、想定外のトラブルで遅くなってしまった上に、新しい施設への入所は、年末年始はダメ、土日はダメ、とされ、家族が施設側に合わせなければならないことに。


私は、「家族だったら、病気の家族を優先すべき。病気や高齢の家族の面倒を看るべき」という考えが嫌いです。

家族だから、長女だから、と、自分自身の生活の全てを犠牲にしてまで親の介護をする気はありません。

でも、今だからこう言えるのあって、数年前までの私には、こうは言えませんでした。


こういってはなんですが、親の看護や介護を通じて、医療や介護の現場では「家族がすべきだ」とする傾向の部分が多いような気がしました。

では、家族がいない病気の高齢者はどうするのか?

家族が県外在住などで近くに住んでいない場合はどうするのか?

近くに住む家族がいる、介護や看護をする家族がいる、となると、行政を始め医療機関や介護施設は、家族が犠牲を払わなければならないような方向性に向けたがる。

ですから私は、「家族にも自分たちの生活がある」ことを言いたかったのです。

施設への受け入れが、年末年始はダメ、土日はダメ、ということになると、施設側の要求だけが優先されることになり、母親を転居させる側の家族は、仕事を休まないとなりません。

だからせめて、そういう事情が存在していることだけは伝えたかった。

家族側も、自分たちの生活を犠牲にして認知症の母親に関わっているのだと。



私はこの本を読み、今までの自分の概念を180°ひっくり返された気がしました。

なぜって、こうして自分の都合を相手に伝えることは、「言い訳」「余計なこと」のように思っていたからです。

「え?言っていいの?だって、そんなの言い訳じゃん?余計なことじゃないの?」

私のバーバル(言語)コミュニケーションは、「結論を伝える」ことを優先し、そこにおけるプロセスを省く傾向でした。

もともと話の構築が下手くそで、まとまりがなく、独りよがりの伝え方になってしまうと自覚がありましたから。

この本を読まなければおそらく、母親の転居先施設の担当者に「では、受け入れは7日の午後でお願いします」とだけ、言ったでしょう。

けれども、ただそれだけ言ったのでは、「家族が自分の生活を犠牲にして認知症の母親に関わっている」ことは伝わりませんよね?

それどころか、「あの家の人たちは、いつでもOK」なんて、まるで暇しているみたいに思われてしまうかも。




私は今まで公私ともに、少々無理なことも、かなり無理なことも、「いいよ。大丈夫」と安請け合いする傾向でした。

ですが、それをしてしまうと、多少なりとも無理している自分の事情は、相手には伝わらないのですね。

ですから、そこはホントのことを伝え、多少なりとも無理があることを相手に伝えるべきだと思います。


そして、こうして自分の事情を相手に伝えるようになると、「ご機嫌取り」や「偽善」「補償行為(罪悪感などから行う行為)」ですることが減ると思うのです。

世の中には、「人が当然やってくれるもの」と思っている人は山ほどいて、そういう人こそ、こちらの事情など考えていない、気づこうともしていない。

そんな人たちに、自分の大切な時間や労力を、どうして好き好んで与えますか?

そういう人たちに対して、「ご機嫌取り」や「偽善」、「補償行為」で行うから、「犠牲」になるのでは?


相手の要求を受け入れることで、自分が抱えるデメリット、リスクなどの事情を、ちゃんと相手に伝える。

周囲の人たちに伝える。

これって必要なことなのですね。

久々に良い本に出逢えました。

オススメです♪

「できる自分」を認めて、他人をあてにしたり期待をしない

私事ですが、少し前から、認知症の母親のことでけっこうゴタゴタしていました。

そのせいでメンタルも不安定になり、ちょっと辛かった日が続いたのですけど。

なんとか復活して今は絶好調。

ここに至るには、「自分のやり方(自分スタイル)」と、「できる自分」を思い出して認めた自分がいました。


2年間精神病院に入院していた母親が現在の施設に入所し、たった4ヶ月で退所する羽目になったこと。

それは、いったい私の何かいけなくてこうなったのか?

考えないわけにはいきませんでした。

同じ失敗は繰り返したくない。

だから、ちゃんと自分と向き合って答えを見つけたかった。

そこで、気づいたのです。

「辛いことは自分だけで抱えずに人を頼ろう」と、自分自身に言い聞かせてきたのですが、それがいつの間にか、「辛いことは自分だけで抱えずに人を頼らないといけない」とする「縛り」になっていたことに。


元々の私は、「人を頼らない」性分です。

人を頼れない状態で生きてきた、とも言えるでしょう。

人やネットから知恵を借りることはあっても、手を貸してもらえることはない。

特に家庭の中では、人間相手でもペット相手でも、「労働力が自分しかない」といった状態で生きてきました。


私は、そうやって「ひとりで対処してきた自分」を思い出しました。

そして同時に「ひとりで対処できた自分」の存在も。

……そうだった。

私、できるんだった。

ちゃんとひとりで結果が出せるんだった。

なのに、何を甘えたこと言ってたんだろ?


さらに気づいたことは……

私にとって「人を頼る」という目的が、いつしか「人をあてにする」になり、その結果「(その相手に)期待する」になっていたことでした。


人をあてにしたり期待したりすれば、その通りにならなかった時に、ガッカリ感や怒りが発生するでしょう。

いつも自分ひとりで物事に取り組んできた私には、「誰も助けてくれない。自分だけで対処しないとならない」といったプレッシャーや孤独感はありました。

しかし、誰も助けてくれないのが当たり前だという諦め感があったためか、人をあてにする、期待するなどの結果として起こる、ガッカリ感や怒りは無かったと思います。



今日このブログで伝えたいことは、「人を頼らずに何でもひとりで対処しろ」ではありません。

人を頼らなくても「できる自分」を認めて、「自信を持つ」こと。

そして、「自立」した人間は、人を頼りながらも、「あてにしない」「期待しない」こと、です。



人にはそれぞれ「自分のやり方」というものがありますから、ひとり仕事の方が向いている人が他人と作業しようとすると、問題が起こりがちです。

ですから、人を頼らずに自分ひとりで頑張る方がいいことと、人を頼って助けてもらいながら頑張る方がいいことと、使い分けたらいいと思います。

それに、「人をあてにする」「人に期待する」は、すでに「依存」の域。

物事には主体性を持って取り組み、それぞれの役割の責任を負うことを考えて行動できたらいいですね。


大丈夫。

ちゃんとひとりでも、できるから。

そして、誰かと一緒の時には、あてにしない。期待しない。

悪口や愚痴を誰に話すか?が問題

私は、生きていれば誰かの悪口を言いたい時もあるし、不平不満を愚痴りたい時もあって当然だと思っています。

ですので、悪口言いたい時には言えばいいし、愚痴大会開催も賛成です。

ですが問題は、

言いたい悪口を、誰に言うか?

愚痴大会のメンバーをどうするか?

だと思うのです。



例えば、職場の中に、ストレスの元となる人(Aさん)がいたとします。

そのAさんのの悪口を、同じ職場の人(Bさん)に言いました。

BさんもAさんのことを良く思っていなければ悪口は言いやすく、悪口大会は盛り上がるでしょう。

ガールズトークの基本は「共感」ですから、「分かる分かる~!」って。

でも、この悪口大会は、非常に危険なのです。



かなり前のことですが、とある派遣先で、女子社員数名が1つのテーブルに集まってランチしながら、ある派遣社員の女子(Cさん)の悪口を言っていたことがありました。

私はそこのテーブルに同席していて、Cさんの話題で盛り上がる女子社員たちの話に混ざっていたわけですが。

半月ほど経ったある日、派遣先の上司に呼ばれました。

そしてそこで「君は同じ派遣元から来ているCさんの悪口を言って歩いているようだけど。職場の風紀を乱すので次の契約更新はしないから」と言われたのです。

…は?何それ?

私は、「言い出したのは私ではないし、私はそこまで言っていません」と抗議しました。

ですが、「私は君が最初に言いだしたと聞いているが、じゃあ、最初に言いだしたのは誰?」と訊かれ、私はそこで女子社員たちの名前を出すことができなかった。

だって、私もその場に居たのは事実だし、Cさんの悪口だと取られるような言い方をしたかもしれない。

女子社員たちの話に混ざっておきながら、「でも私は悪口を言っていません」など、上司は信用しないでしょう。

なので、契約満了日を待たずに、私はその派遣先を辞めざるを得なくなりました。


私はこの時の上司からされた「青天の霹靂」的な話のフラれ方を、忘れることができないのです。

どこでどう話が食い違い、どういう経過でどういうルートで派遣先の上司の耳に入ったのか?

さっぱり分かりません。

でも、「その場に居ただけ」でも「共犯」になり、酷い時には「首謀者扱い」までされるのだと、痛い思いをして学んだ出来事でした。

と言いながら、似たようなミス、失敗を繰り返しては、「全然学べていないじゃん」と自分を責めながら生きてきたことも現実ではあります。


そこでここ数年は、「共犯」「首謀者」などという不名誉なレッテルを貼られないために、私は、自分の中にルールを作りました。

それは、その職場、そのコミュニティの中では、そこに属している人の悪口を、そこに属している人や、その近しい関係者に言わないことです。


うっかり喋ってしまった悪口や愚痴が、どこでどう、どんな風に伝わっていくか分かりません。

ですので、誰かの悪口や愚痴を言う時には、「その関係者とは接点のない人に言う」ことを徹底する。

そして、できれば、「口が堅い人」であり、他の人に言わないと信用できる人ですね。


私の親友は県外在住であり、私が悪口を言いたくなるような人とは接点がありませんから、私は遠慮なく悪口を聞いてもらえます。

私だけではなく、親友も、自分の周辺で起こることへの愚痴や不満を話してくれます。

でも私にとっては全く知らない人たちの話なので、他人事として聞き流すことができるわけです。



悪口や愚痴は、言ってもいいんですよ。

その代わり、自分の身の安全を確保すること。

「誰に言うか?」には、くれぐれもご注意を。

自らがコミュニケーションリーダーに! ~愛猫から学んだこと

私の猫ちゃん、現在11歳。

一番最初に飼った猫は茶トラの子猫でしたが、数か月間一緒にいられただけで、子猫のまま虹の橋を渡ってしまいました。

次の猫は三毛猫で、17年間共に生活し、私の人生に大きく関わった猫でした。

そして今度の猫は、キャッテリーさんから購入したラグドール。

白くてふわふわした猫が欲しくて探していたところへ、ネットで見て一目惚れ。

県外まで車を飛ばして迎えにいった、愛猫です。


が。

我が家に連れてきた直後から、ひどい下痢。

下痢はなんと2か月間以上も続き、その間、私は本当に心を病みました。

それに凶暴で、威嚇したり噛み付いたり。

自分の飼い猫に「シャー」されたことなどなかった私は、もう、どうしていいのか分からなくて。

白くてふわふわした可愛い猫が欲しくて手に入れた理想通りの存在なのに、なぜ?

「この子とどうやって生きていったらいいのだろう?」と、真剣に悩んだのでした。

「シャー」されるから、怖くて近寄れない。

抱っこしたくてもできない。

先住猫の三毛猫は自立していて賢い猫でしたし、猫パンチすらいただいたことがありませんでした。

常に傍らにいて、布団の中に潜ってきては一緒に寝ていたのに。

ラグドールの子猫にどう接していいのか分からず困り果てた私は、フラワーエッセンスを買って子猫に塗ってみたりもしました。

でも、彼女とは心の距離がどんどん遠くなっていくような気がして、いっそ、手放してしまった方がいいのか?キャッテリーさんに返した方がいいのか?とさえ考えるようになっていったのです。


そんな私が、ある日、ふと思いついた。

それは、私がメンタルケアの仕事の中に取り入れている「ヒューマンカラー診断」なのです。

これは、その人の個性を知るためのもので、確か、ペットにも有効だと……

今度の猫は誕生日が分かっているから、いけるんじゃないか!?と思いました。

そこで調べてみると……

今度の猫がどうして下痢続きだったのか、どうして狂暴なのか、分かったのです。


なので私はその日から、自分自身が「コミュニケーションリーダー」となり、子猫の個性に合った接し方をしました。

それは根気のいる、私自身との戦いでしたが。

きっと、猫飼いキャリアの長い人にはすぐに分かったことかもしれません。

でも、人間の子育てさえしたことがない私ですから、新しく迎えた家族に、どう関わっていいのか分からなかった。

私は「ヒューマンカラー診断」による個性分析をもとにし、まずは子猫が「異常なほど怖がり、ビビり」であることを尊重し、彼女の方から近づいてくるまで一切手を出さないことを徹底しました。

ただ、無視はしません。

声掛けだけして、触らない。

こうして半年ほど経ったころから、彼女自ら近づくことが増え、名前を呼ぶと返事までしてくれるようになったのです。


彼女は「ヒューマンカラー診断」で分析される個性のままの存在であり、飼い主の私同様に、ストレス耐性が低いのでした。

数日間フラフラしたり水をがぶ飲みしておかしいな? と思って獣医さんに診せると、「何か怖いことがあったんだろうね」と言われ、精神安定剤を打たれました。

私が昼間派遣の仕事に行き始めると、過剰グルーミングで太ももから足にかけて丸ハゲにしてしまったり。

なので、彼女が11歳になった今でも、ひとりで留守番させることは心を痛めるわけで。


「ヒューマンカラー診断」で分かる彼女の個性は、「相手とは一定の距離を保ちながら同じ空間にいることを好む存在」です。

「平和主義で争いを好まず、静かで温和な生活を望む存在」でもあります。

ですので、私が父親と口喧嘩を始めると、必ず足元に来て激しく鳴いていましたし、パニックのように走り回っていました。

そうなると私も、ケンカをやめざるを得ませんでしたね。


ペットなどの動物は、人間の言葉を話せません。

彼らとは、言葉でのコミュニケーションができないのです。

でもそれは、人間同士でも言えること。

言葉にしなければ相手に伝わりませんから、コミュニケーショントラブルは必ず起こります。

ですから、「相手の個性を知ろうとすること」から始め、「相手の個性を知って、受け入れる」ことが、コミュニケーショントラブルを減らすコツだと思います。

そもそも私たち人間は、「理解し合えない生き物」なのです。

最初から上手くいく関係などほんのわずかで、ほとんどは、自分を理解してもらうための努力と相手を理解しようとする努力の積み重ねが、必要ではないでしょうか。

私は、相手を知るためにヒューマンカラー診断や心理学を使いますが、そういった手段も個々で違っていいと思います。

相手のことが「理解できない」「仲良くなれない」と、常に受け身でいるのではなく、自分から動いてコミュニケーションリーダーとなることをオススメします。

今ではストーカー(笑)

大失敗。催促メールで大恥をかいた話

穴があったら入りたい。

大失敗の話を書きますね。

もう、自虐ネタだと思われても仕方ないです。


先月、イベントでカードセラピーをした時のこと。

カードセラピーは500円でした。

あるお客さまのセッションを終えて支払いの時「1万円札しかない」と、そのお客さまは言いました。

でも私、その時、午前中にカードセラピーのフルセッションをしてお釣りを渡してしまっていたので、私も1万円札しか持っていなかったんです。

なので、お釣りがないことを伝えたのですが。

そのお客さま、とっても感じの良い女性で、「ぜひまた会いたい!」と思ってしまった私。

だから私、「近いうちに、お茶しませんか?」と誘いました。

すると相手も、「ぜひ!」ということになり……

その後、お茶する日程を決めたのですが……

結局、相手の急用のため、お茶には行けなかったのです。

で、そのままお互いに何も連絡しない状態が続き、私は一昨日、そのお客さまにカードセラピー料500円を催促するメールを送りました。



が。

これが失敗でした。

私はここ最近、自分を大切にしよう、価値がある自分を表現しよう、という気持ちが強くなっていたため、例え500円でもちゃんといただこう!と、メールしてしまったのです。

しかし、そのお客さまからの返信は、こうでした。

「先日のやりとりですが、私が10000円札しか持ちあわせていなかったところ、緋呂子さんが今回はお代は結構ですので、お茶でもいきましょう!と言ってくださり、ではその際私にごちそうさせてください…という流れでした」


ガーン。

実は、この「ごちそうさせてください」は覚えています。

でも私はその時、「ごちそうしてくれなくていいですよ。お金はその時にもらいますから」と言ったつもりでした。


先日私、ある知人からもらったメール返信を読み、自分が言ったことと食い違いがあることに気づいたのです。

そんなこと言ったっけ?と、まったく記憶にないことが相手からの返信には書かれていて、その時のやり取りの記憶が曖昧であると実感しました。

なので、そのお客さまにも、「もしかして、お金はいらないとか言ったのでしょうか?」と、メールをしたのですよ。

そしたらやっぱり、「お金はいらないって言った」という返信が来て。


私、これでも記憶力には自信があります。

でも、知人からのメールを読み、思ったことは、「お互いに記憶している部分が違う」ってことでした。

たぶん、知人の言ってることも真実だと思います。

嘘やいい加減なことを言うような人ではありませんから。

確かに私がそう言ったりやったりしたのでしょう。

ですが、私も自分の記憶には自信があり、知人の言動に関して嘘偽りを言ってるわけではない。



ここ1ヶ月くらい、「言った、言わない」が多いです。

発言への誤解や勘違いも。

これも水星逆行の影響かとは思いますが、それで片付けられる問題ではないですよね。

「お金はいらないと言われた」と思っているお客さまに対し、支払い催促するメールを送ってしまったことになり、私は青くなりました。

ですので、大変申し訳なかったと精一杯の謝罪を言葉にして、「お金は必要ありません」とメールしたのですが。


ここで思ったのは、お釣りを用意しておかなかったこともですが、その場で1万円札を両替し、9.500円お釣りを渡すべきだった、ということです。

この問題は、小銭を持っていなかったお客さまには責任はありません。

明らかに私の落ち度です。

前のお客さまにお釣りを出してしまったのなら、イベント会場に入る前に、また1万円札を両替すべきでした。


そして、「口約束」というものがいかに曖昧で、「記憶」も形にしておかないといけないと、痛い学びを得ました。

「言葉」というものは、目に見える形がなく、一瞬で流れてしまうものです。

「言った、言わない。聞いた、聞かない」などのトラブルは、「言葉」が目に見えないから起こることでもあります。

なので、必要に応じてスマホのボイスレコーダーを使おうとは思っているものの、その場になると忘れてしまって使えていない。

でも、後々こういったトラブルにならないためには、約束事や決め事は文章にするとか、メールにして記録を残すとかの努力が必要ですね。



もう、本当に今回は大失敗でした。

失礼な催促メールを送ってしまったお客さまには、本当に本当に申し訳なかったと、深く反省しています。