「シャドウ」自分の中にある否定したい悪の存在

セルフセラピーカード No.23 「シャドウ」

心理学用語に「シャドウ」という言葉があります。

これは、「自分の中にある否定したい悪」という意味を持っていて、この「シャドウ」は「他人に投影される」ものです。


昨日私は、お友達と会ってお茶をしながら、お友達がすいぶん前に働いていた職場の同僚の悪口大会をしてきました(笑)

もちろん、それはお互いの「シャドウ」に対しての悪口になるわけです。

だいたい、人の気に入らないところって、「シャドウ」なんですよ~

「自分の態度の悪さを棚上げして、あの人って挨拶しないとか、言ってるんだよね~」

「勤続年数長いからって、上からな言い方するよね~」

「40歳過ぎて結婚したいとか言ってるけど、お料理全然できないじゃ~ん」

「自分に都合の悪いことは全部人のせいにするよね~」

「私ってデリケートだとか言っちゃって、個人のメアドに抗議メールもらったよね~」


なーんて、もうずいぶん前の職場の同僚のことなのに、大笑いしながら悪口言ってきたのですが。

これ、み~んな、私とお友達の「シャドウ」です。


「シャドウ」って、「自分が認めたくない悪い自分」。

でも、こうやって人の悪口言ってみると、その相手に「投影」されていることがよく分かります。


どうでしょうか? 悪口大会した私たちの中に、

「自分の態度の悪さを棚上げして、人を批判したい」

「勤続年数長いからと、上からものを言いたい」

「スキルが伴っていなくても、自分の欲求を叶えたい(料理ができなくても結婚したいと言いたい)」

「自分に都合の悪い子とは全部人のせいにしたい」

「相手の個人メアドに抗議メールを送りたい」

といった「悪意」があったことが、お分かりいただけるでしょうか?



「シャドウ」は、他人(投影)を使って、私たちにその姿を見せつけてきます。

それなのに私たちは、「そういう他人」だと思い込み、批判的に見ては、平気で悪口を言うわけです。

いやいや、違う違う。それはあなた、あなたなのよ~。

私たちは自分の姿を見せられているだけなのよ~。


「シャドウ」は、「いい人の仮面(ペルソナ)」とセットとして存在するもの。

「いい人」でいようとすると、周囲が「シャドウ」だらけになってしまいそう(笑)

ですので、ワタシ的には、適当に「シャドウ」を解放してあげることを、オススメします。

さて、自分の態度の悪さを棚上げして、人を批判するか~(笑)

あ、いつもしてるか~(笑)

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類友の法則。その相手は自分が引き寄せたもの?

「類は友を呼ぶ」

これは真実だと言えるでしょう。

私は自分が人間関係の問題に関わり、傷つく度に、思います。

その相手は自分自身が引き寄せたものなんだと。



例えば、日頃から不平不満を口にしては愚痴ってばかりいる人がいます。

こういう人の周りには、やはり同じように、不平不満を愚痴る人たちが集まります。

自分が傷ついたり不快な思いをした時は、つい被害者意識が強くなり、相手のことを責めたくなりがちですね。

でも、もしかしたら、その相手は、自分と「類友」ではないか?

と、考えてみたことはありますか?

相手の悪いところ、気に入らないところが、自分の中にはないか?

平気で相手の悪口を言っているけれど、実は自分も似たようなものじゃないのか?


人間の目は外の世界を見るためについていますから、自分以外のもの、形のある物理的なものはよく見えます。

でも、自分の内側、目に見えない心や意識、思考などは、見えない。

だから私たちは他人を使って、自分自身を見るようにできているのです。


目の前にいる他人は、自分自身の投影です。

ですから、「類友」として引き寄せられた、自分自身と同じもの。

この「類友」「引き寄せ」は、「自分自身を知るためのもの」として、私たちの前に現われる他人です。


損得勘定ばかりする人の周りには、やはり、損得勘定ばかりする人が集まります。

「損か、得か」で関わり合いますから、自分が「得」だと思うことしか動きませんので「損」だと思う事には協力しません。

他人を利用して得することばかり考える人の周りには、他人を利用して得することばかり考える人が集まり、互いに互いを利用し合う。

ですから、利用価値がないと思われる相手には、見向きもしないでしょう。

見栄っ張りの人の周りには、見栄っ張りの人が集まり、見栄の張り合いをして競います。

ネガティブなことばかり言う人の周りには、ネガティブなことばかり言う人が集まります。

ポジティブなことを言う人の周りには、ポジティブなことを言う人が集まるのですよ。


それらはすべて、「類は友を呼ぶ」「引き寄せ」です。

「人の振り見て我が振り直せ」ということわざがありますが、他人の欠点や失敗を笑ったり責めたりする前に、「そういう自分はどうなのか?」と、一度自分に意識を向けること。

そうすることで、他人にあるものが自分にもあると分かれば、悪口も言えなくなりますね。


自分が変われば周囲も変わるというのは、この「類友」と「引き寄せ」の影響なのですよ。

自分がポジティブで、笑顔でいれば、自然と周囲にそういう人たちが集まるでしょう。

他人を批判して攻撃する前に、笑ってバカにする前に、「そういう自分はどうなのよ?」と、自分を見るくせをつける。

これが、何よりの成長のもとではないでしょうか?


他人のせいにして自分を見ない人は、いつまで経っても成長しません。

同じ失敗を繰り返し、いつも同じようなことで嫌な思いをするわけです。

そして、それも他人のせいだと責め、自分を見ない。

その繰り返しを、いつまで続けますか?


「人は鏡」です。

「類は友を呼ぶ」「引き寄せ」で、私たちの目の前にいる他人は、自分が成長するための大切な人たちなのですね。



「仕事・労働」と今世での自分の役割

この世に生まれてくるということは、何らかの「役割」を受け持っていることなのだと、私は考えています。

私たちは生きている限り何らかの役割を担い、その役割に応じた生き方をするのが、最も楽で、最も楽しく、最も喜びを得られることではないか?と思うのです。

 

私たちの魂は輪廻転生し、今世で関わる人達とは「ソウルメイト(魂の友人)」として、生まれる前に念密な話し合いを経て、今世でどう関わるか?という役割を決める…

輪廻転生そのものがあるのか無いのか?も分かりませんが、私はそう思っています。

 

 

私は、メンタルケアの仕事をする者でありながら、ネガティブな感情の海で溺れ、深海に沈んでいるかのような気持ちのまま過ごすことが多々あります。

自分を責め、嘆き、絶望する。

その度に、今世での自分の役割、何のために自分は生まれて、何のためにここに存在しているのか?を考えずにいられません。

 

 

私たちがネガティブに浸り絶望するのは、その根底に「自分には価値がない」としているからではないでしょうか?

自分の存在価値を見つけることができないから、辛くて苦しいのではないでしょうか?

 

思うのです。

「仕事」とは、お金を得るための労働ばかりではなく、家事や子育てのように、直接の収入にはならない労働も「仕事」だと。

その「仕事(労働)」こそ、今世での自分の役割を示すもので、そこにこそ喜びが満ち溢れるのだと、私は考えています。

 

 

「人が生きる最大の喜びは、誰かや何かの役に立つこと」

これは、いつどこで知った言葉か思い出せないほど前に、私の心を動かした言葉です。

 

「誰かや何かの役に立つ」ということは、自らが、何かを何かしらの方法で「与える」ことに他ならない。

つまり、何も与えなければ、生きる喜びも得られずに終わるということでしょう。

「与える」は、自らが発するエネルギーなのだと考えると、赤ちゃんが笑うという当たり前の行為でさえ、それに値すると思うのです。

 

でも私たち大人は、笑うだけで癒しを与えることができる赤ちゃんとは、少々違う。

ただ笑うだけではなく、労働という形で世の中にアウトプットする必要があります。

その、仕事や労働を通じて社会にアウトプットするものが、今世での役割として、喜びと交換できるものだと考えるわけです。

 

 

「私なんて…」と自分を卑下して、悲しみに沈んでばかりいた私ですが、こうして書くブログや、セッションを通じて伝える言葉が誰かの役に立つなら、これ以上の喜びはありません。

このブログが誰かの心に届き、誰かの心を元気にできるなら、このブログを書くことが今世での私の役割であり、ここが私の居場所、職場なのだと思います。

 

自分が、今世の役割として、どんな形で社会にアウトプットできるのか?

それが明確になれば、ネガティブに浸る時間も短くなるでしょうし、絶望もしないのはないでしょうか?

 

私は子供のころから、自分の居場所が見つからず、一生懸命に取り組む仕事も労働も、常に空回りしていた気がします。

でも、「言葉」を使って他者の心に「気づき」や「勇気」を与えることができると知った時、深海に沈んだミジメだった自分を、「陽の下に出してやりたい」と初めて思えました。

 

 

人はみんな、この世に必要とされて生まれてきます。

そして、例え自分の存在価値を疑うような辛く苦しい経験をしたとしても、それは本来の自分の役割に気づくための必要な経験なのです。

 

泥の中に在りながら美しい花を咲かせる睡蓮花のように、辛く苦しかった過去を「リソース(資源)=肥し」として、あるべき姿で役割を担い、社会にアウトプットして、結果としての喜びを受け取りながら生きていきたい。

私はそう思っています。