メンタルケア心理士がうつ病再発したらシャレにならないでしょ?

今日、会社休みました(笑)

あ、理由はちゃんと体調不良です。

先月GW終わりから本当に具合悪い日が続き、辛くて苦しくて悲しくて、会社のトイレで泣く時もありました。

いくつかの病院を受診、漢方薬飲んだり針治療に行ったりして、先月の医療費、ハンパない。

どうでもいいものを衝動買いしてしまうことも多くて、その度に自分への言い訳として「会社であんなにガマンして働いているのだもの、このくらい買ってもいいよね?」と…

ホント、何やってるの?私。

そして、迷いに迷い、悩みに悩んで、ようやく「会社(派遣先)を辞める」決意をしたのが先月末。

必死で掴んでいた「執着」が見えた時、ゾッとしました。

それは、母親から刷り込まれた母親自身の価値観から来る言葉。

その言葉に縛られ続けた私は、その「執着」を「手放す」ことに決めたのでした。

ですが、一度壊れてしまった体は、そう簡単には治りませんね。

気分も、そんなにスッキリしないのが事実です。

だって、会社辞めたら、無職、無収入生活の危機にさらされるのですもん。

「終わり」は「始まり」です。

ストレスまみれの派遣先との別れ、終わりは、就活と不安の始まりですから。

先週末は調子が良くて、買い物行ったり妹とランチに行ったり、なんと網戸の貼り替えまでしちゃった私。

ちょこちょこ作業していた新しいホームページもいよいよ仕上げ段階に入り、昨夜は気持ち乗ってサクサク作業していたのですが。

今日のお弁当の下ごしらえもし、さあ、また一週間仕事だ~!と、はりきって寝たつもりが…

今朝、ベッドから起きたとたんにグルグル~と目が回り、転ぶ寸前。

めまいがひどくなったのは2週間くらい前からで、グルグルに加えてクラクラフラフラも始まっていました。

仕事に行かねば!

来月、家計が赤字になってしまう!

困る!電気代が!食費が!ガソリン代が!

仕事に行かねば!

会社に行かねば!

そう自分に言っている自分に気づいたのが、先週の水曜日でした。

そこで、思い出したのです。

うつ病になった時、やっぱ、こうやって、自分を追い込んでいたってこと。

頑張れ!頑張れ!頑張らなきゃいけない!会社を辞めちゃいけない!辞めたら次がない!会社休んだら金が入らない!

ははは。

笑えました。

何やってるの?私、って。

以前、まだメンタルケアの仕事を始めたばかりのころ、うつ病の男性のカウンセリングしたことがありました。

その男性がうつむきながら小さな声で語ってくれたのは、「子供のころ父親に、頑張らない人間はダメな人間だ、と言われたんです」って話でした。

私は、その時のその男性の言葉を思い出した。

あぁ、私も同じなんだ。

母親の言葉が「呪い」となり、いつまでも私を縛って放さない。

私は母親に、「アンタは自分の要求ばかりする!」と責められ続けたんですよ。

なので私は、いつのころからか、「自分の要求(欲求)」を相手に伝えることができなくなりました。

結果的にそれは、「ガマン」になります。

他人からしてみたら、「え?そんなこと、言えばいいのに」と思うようなことでも、私には言えない。

自分の要求(欲求)が、自分都合のワガママではないか?と、常に考えてしまう。

他の人はみんなできることなのに、私にはできないんだ。

だから悪いのは私なんだ、と思ってしまう。

仕事って、お金をもらうって、ガマンしたり努力したりが当たり前。

なのに私は、ガマンも努力もできないダメ人間だ。

協調性がなくて個人プレーばかりしていて、孤立気味。

そんな自分に追い打ちをかけるように、どんどん具合が悪くなっていきました。

普通に生活できる体なのに、これと言って病気ではないのに、どうしてこんなに具合が悪いんだろう?

緊張型頭痛で締め付けられるような頭の痛さと、吐き気、微熱。

思考は停止寸前だし、痛い頭を抱えて、先週、私は考えていました。

会社に来て仕事するって、こんなガマン大会みたいなこと?罰ゲームみたいなこと?…と。

仕事ができるかできないか?ではなく、椅子に座っていられるか倒れるか?の選択でした。

もうどうにもならない、このままでは吐く、倒れる、と覚悟を決めて早退を申し出たのは、就業時間30分前(笑)

どんだけバカなの?私(笑)

で、今朝も、出勤するかどうか迷い(いや、まともに歩けないのに出勤は無理だろ~:心の声)、とにかく耳鼻科に行くことを優先しました。

すると、自律神経失調症からのめまいとのこと。

が、薬局からの帰り道、「このくらいの具合の悪さじゃあ、会社、行けるかな?」と考えた自分がいたのです。

人間には「耐性」「恒常性」というものがあります。

少々具合が悪くても、しばらくして慣れてしまうこと(耐性)と、状態を保とうとすること(恒常性)が働き、いつもどこかどうか具合悪い状態で出勤するのが普通になっていた私。

なので、「このくらいなら、まだイケるな」と思ってしまった。
でも、さすがに今日は、家にいることを選びました。

(それも実は、派遣会社の営業マンに出勤を止められたので・泣)


ストレスって、個々に違います。

だから、他人の言う事をモノサシにせず、自分の体と相談する。

私、「もう限界です」で退社を決めたのではなく、「もう、とっくに限界突破してました」で退社ですから。

他人(親)をモノサシにすると、こういうことになるんですね。

派遣会社の営業マンも言ってました。

「会社って、入ってみないと分からないんですよね~」と。

入ってみて自分には合わないな、と思うことは、別に間違いじゃないってことですよね。

私、「メンタルケアの仕事をして誰かの役に立ちたい」「こんな私でも、私がした苦しみが誰かのためになるなら幸せだ」と、ずっと思ってきました。

けど今回、潜在意識の奥底、一番下の下にある「親の呪縛」を解かない限り、私のしてきた苦しみはいつまでも陽の目を見ないって、分かったのです。

私はメンタルケアの仕事をしていますが、こうして、自分自身が苦しむ日々を送る情けない奴です。

でも、私と同じように苦しんでいる人の役に立てるなら、今の自分のことを公表する。

普通に生活できるはずの体があるのに会社に行けないなんて、働けないなんて、こんな辛くて苦しい思いは、他の人にしてほしくない。
そして、ここでうつ病再発なんてことになったら、シャレにならんぞ、と自分に言いました。


仕事、会社、というより、他人と関わることには、ガマンや努力が必要だとは思います。

しかし、健康を害してまでか?と問えば、そこは「いいえ」でしょ?

今日の午後は、薬が効いているせいか、だいぶ楽になりました。

ですので、ブログを書く意欲も出ました。

メンタルケアの仕事は、活動名称も新たに、リスタートさせます。

これも全て、働ける自分の体があるからできること。

痛い思いを繰り返して学んだ、大切なことです。

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人から必要とされない自分には価値は無い?

自分には価値があるとか無いとか、考えたことってありますか?

価値がない、と凹んだことって、ありますか?

セルフセラピーカード No.22 「無価値感」


生物が生きる喜びは「必要とされること」だと、何かで読んだことがあります。

確かに、「必要とされる」ことで味わう感覚は良いものですが、中毒性を含んでいる気がしませんか?


私は「必要とされる」ことが喜び、とまでは思っていませんでしたが、何かしらの「役に立ちたい」とは考えていました。

「役に立った」と感じた時は嬉しくて、心地良い「達成感」も同時に味わうことに。

だからなのか、「人の役に立てない自分はダメだ」とか、「人に必要とされない自分は価値がないのだ」とかが、頭のどこかに常に存在する。

そして、「必要とされよう」として、無理をしたりガマンをしたりしてしまう。

必要以上の自己アピールをしてしまう。

そういった感覚を持っている人は、意外に少なくないようです。


私がメンタルケアの仕事をスタートしたのも、きっと、そんな理由が頭の中にあったからではないか?と思います。

人に必要とされる自分になれば、私は自分のことが好きになれるのかもしれない、とか。

自分が楽しいとかの感覚ではなく、とにかく他人に軸を置き、自分の幸せを他人に委ねていたのでしょうね。


私は、ライフワークとしているメンタルケアの活動に関して、その活動名称を度々変えてきました。

でもそれは、お客さまに対してのベネフィット(お客さまの得になること)でした。

簡単に言うと、お客さまにそれが必要であり、それを提供したい、そうなってもらいたい、とする自分自身のテーマでもあったのだと思います。

しかし、それってちょっと違う、と違和感を感じ始めたのは今年のはじめあたりで。

誰かや自分に、そうなってほしい、そうなるべき、ではなく、私自身が何をしているか?という、その時に求めているもの(テーマ)ではない、安定した不変なものにしたい、と考えたのです。

それを提供すれば必要とされる、といった、「お客さまのニーズ」を軸にするのではなく、私自身がどうか?などを反映させた活動名称にしたい。

そういう名称にしないから何度も変えなきゃならなくなる、とも思っていました。


「役に立ちたい自分」や「必要とされたい自分」を軸にすることは、イコール、他人を軸にすることになります。

他人を軸にすれば、ブレて当然なのです。

ですから今回、「活動名称=私」になるようなものにしたいと、そう気づいた時から時間をかけて考えていました。

自分に価値があるとか無いとか、必要とされるとかされないとか、全く関係なく、「これが私」を活動名称にしようと。

こういう感覚で活動名称を考えたことがなかったため、決まるまでにはだいぶ時間がかかりましたが、ようやく先日、納得のいく名称を決めることができました。


「誰かのために」と動くこと、自分より他人を優先して与え続けること、それらはとかく「良い」とされ、自分のために動いたり自分を中心に考えたりすることは「悪い」とされがちです。

でも、「必要とされる喜び」を味わいたいが故に自分を犠牲にするのは、間違いだと思います。

自己犠牲を払う自分を必要としてくれるのは、そういう相手を「都合よく使いたい人」ではないでしょうか?

結果的に共依存になるだけの話です。

「必要とされたい」「役に立ちたい」の裏側に、そうしないと自分の価値を感じられない自分がいるなら、絶対にうまくいかない。

だってそれって、「邪念」(よこしまな考え)みたいなものだと、私は思っています。



毎日を普通に生きていたら、誰かに必要とされるされない、役に立つ立たないなど、考えることもないわけです。

自分に価値があろうとなかろうと、楽しいと思うことや笑うこと、は可能でしょ?

楽しいと思う事をして、楽しいと思えない事はしない、やめる。

幸せって、そういうシンプルな生き方が育てるような気がします。

「楽に生きる」ために必要なたった一つのことは

楽に生きたかったら、他人を気にしないことです。

他人を軸にしない。

他人の評価を求めない。

それができたら、本当に楽に生きることができると思うのです。



今日は仕事がスムーズに行かず、少々凹みながら帰宅しました。

寝不足続きで朝からあくびが止まらなかったし、何となくダルくて、いつもの調子が出なかったことが原因でしょうね。

そんな今日は、久しぶりに息苦しさを感じたのですが。

やはり、ちょっとストレスを感じると息苦しくなるようです。

「あ、まただ。も~、どうして私はこうなっちゃうの?」

と、自問してみました。

今日の私の仕事は、出張で出かけた上司が、私のデスクの上に置いて行ったもの。

量的に、おそらく数時間で終わるでしょう、と考えていました。

ところが、集中力が無いというか、同じ個所を何度も間違えたりして、一向に先に進まない。

加えて、作業したデータが保存できないなど、いつもは考えられないようなトラブル続き。


…は~。

どうしちゃったのよ、私??

「困った」と思えば思うほど息苦しくなるし、耳鳴りもひどくなってくる。

そこで、再確認したのです。

『今日出張で出かけている上司に「サボっていた」と思われたくない自分』がいることに。


自分が出かけていたからサボっていた、と思われたらどうしよう?

人が見ていないとサボる奴なんだ、と思われたら困る。

気づいたら私は、「言い訳」で頭がいっぱいになっていました。

…今日は体調が悪かったと言おう。

…いや、そもそもデータを提出しないでおこうか?

など、どうやって言い訳しようか?ばかり考えていたのです。


今の私の職場で働くのは、雑談をする余裕もなく働く人たちです。

私も仕事以外のことは話しません。

大声で笑ったり雑談なんてとんでもない、って感じの雰囲気なんですよね。

なので、サボりたくてもサボれないのが現実。

なのに、毎日こなす業務量の半分もいかなかった今日は、「サボっていたと思われるに違いない」と怖くなってしまったのです。




改めて思いました。

私、まだまだ他人を軸にして生きてるな、と。

「人にどう思われるか?」を気にしている限り、ストレスからは解放されません。

自分には自分の事情があり、時には、今日の私のように調子が出ないこともある。

その度にいちいち人の目を気にしていたら、疲れちゃいますね。



楽に生きたいと思うなら、マイペースで生きることを自分に許すしかないのでは?

できないものはできない、失敗することもある、と、開き直るしかなさそうですよ。

「他人の目」が自分を窮屈にするものなら、それを気にしない、という結論です。

「更年期」「太ってる」陰で笑われるのが怖くて汗が拭けなかった私

親しい人との会話の中で、「普通、○○だよね~」と言うことがあります。

ですが、その「普通」って何よ?と、思わず自問してしまう。

「普通」とは、おそらく「一般的に」という意味で使ってるのでしょうけど。




私は子供のころから人とはちょっとズレていたらしいので、この「普通」の枠からだいぶはみ出して生きてきたと思います。

それは、物事への意識や視点、思考や行動などですが、ここ最近は、体型や健康面での「人と違う」ことが問題になってきています。

「HSP(ハイリーセンシティブパーソン)」と言えるほどではないのでしょうけど、色んな事に「敏感」であることは間違いありません。

環境面や対人面でのストレスが自律神経を直撃し、すぐに体調不良になります。

そして、かなり太っていますから、標準体型の人には分からない問題も抱えがち。

そういうの今まで「恥」みたいに扱っていて、自分の「一般的じゃない部分」に対し、憎しみさえ抱いていました。

でもそれは、「人と違うことはいけないことだ」とした我が家の親たちの考えが原因でしょうけど。


我が家の親たちは、「普通」が好きな人たちでした。

ですので、良くも悪くも人より目立つことを嫌い、自分たちも、子供たちも、「普通」「一般的」「平均的」な枠の中で生きることを良しとしていたと思います。

しかし残念ながら、何かにつけて「普通じゃない」私ですから、親たちから嫌われたのは仕方ないでしょうね。



実は私、職場で困った状態が続いていたんです。

椅子の高さやパソコンモニターの高さが合わず、毎日腰痛や首痛で苦しんでいました。

私の職場は大部屋ですし、使っている椅子のメーカーも様々のようですから、探せば私に合う椅子が見つかるかもしれません。

なのに私は、今使っている椅子の高さやパソコンモニターの高さが合わないことを誰にも言えず、首や腰の痛みを自力で何とかしようとだけ、していたのです。

だって、「椅子の高さが合わないから違う椅子と交換してほしい」なんて言えない。

一般的な高さで作られているオフィスチェアだもの、そんなこと言ったら「私は太っているのでお尻の厚みの分、座高が高くなるんです」ってバレてしまう。


でも結局は腰痛首痛に耐えられなくなり、先日、違う椅子を探すことに。

椅子はすぐにちょうどいい高さのものを見つけ、快適になりました。

パソコンモニターの高さに関しては、隣の席の男性社員に話をしたところ、その会話を聞いていたのか、遠くの席の男性社員がパソコンモニターの下に敷くようにとお菓子の箱を持ってきてくれたのです。

これは嬉しかった。

「僕も座高高いので」と笑って言ってくれました。

あいにく、そのお菓子の箱は高さが合わずにお借りすることができませんでしたが、その男性社員の優しさを知ることができましたし、私と同じようにパソコンモニターの下にカタログなどを入れて高さ調整している人がいるという事実は、安心感を作ってくれますよね。



痛みで辛い、精神的に苦しいなど、自分の体や気持ちの事情やは、自分だけのものです。

他人はそんな自分のことなど分かるはずがない。

なので、他人に遠慮することなく、自分で自分の身を守る強さが必要だと思います。

最終的に自分に責任を負うのは、自分自身です。

最後まであてになるのは、自分自身だけ。


こんなことを書いている私ですが、「人にどう思われるか?」と他人の評価を気にしてばかりいて、「普通ではない、一般的ではない、平均的ではない自分」を隠そうとして生きてきました。

更年期症状や太っているせいで汗がダラダラ出ても、周囲の目が怖くて汗が拭けない。

「あの人、更年期だよね」「あの人、太ってるからだよね」と陰で笑われるのを想像してしまい、汗を拭くことができませんでした。

しかし、「困っているのは自分」であり、他人は私の「困っている」を何とかしてくれるわけじゃない。

だから今は、例え陰で笑われても、自分の事情を優先すべきだと思うようになりました。

「つーか、アタシが汗拭いたことで、アンタ達に何か迷惑かけた!?」くらいな気持ちで(笑)



「普通」「一般的」「平均的」の枠の中で生きることは、「安心」なのかもしれません。

「普通じゃない」ことが多い私は、少なくともそう思ってしまいます。

「人と違う」「ちょっと変わってる」って、正直、生きにくい。

でも、それが私なのだから仕方ない、と、受け入れていくしかないと思うのです。


本来ならば、「人と違う」=「個性」として扱われ、尊重されこそしても笑われるものではないはず。

ですが世の中には、それを「悪」だと見たり、笑ってバカにする人もいる。

だから、そういう人は相手にしない。

それこそ、「自分は自分」でいいと思います。

人と違う自分を許して、強くなりましょ。

「人が信じられない。人が怖い」愛着不安を抱えていた私は

あなたには、何でも話せる人がいますか?

心の支えとなる人がいますか?


先日、こんな本を買いました。

『愛着障害 子ども時代をひきずる人々』

精神科医の岡田尊司先生の著書です。

実はこれ、「自分の中の劣等感」からネットサーフィンしていて辿り着いたもの。

この本を読み、まるで私自身を主人公に書かれているような、「え?まさに私のことじゃん」といった感覚を得ました。


子供のころの私は、常に親から否定され、批判され、疎外されていた記憶しかありません。

親にとって私は、「理解できない。扱いにくい。好きではない」子供だったようです。

そのため、「自分らしさのままで生きると親に愛されない」と学んでしまった私。

年を重ねて成長はしたものの、親との間で学んでしまった「対人スキル」は、社会に出てもそのまま使うことになりました。

その結果、「人が信じられない」だけでなく、「人が怖い」と思うようになり、人といると常に緊張して消耗してしまうといった人生を送ってきたわけです。


ですが。

この本を読み、そんな風に生きてきた私にも、今は、ちゃんと私を受け止めてくれる存在がいたことを、改めて確認させてもらえました。

親との間で、うまく愛情のやり取りができなかった私に、親代わりとなって愛情と信頼を与えてくれる人がいる。

そういった存在を、この本では「安全基地」と表現しています。


50歳を過ぎ、こんなことをブログに書くのはどうだろうか?とか、ここまで自己開示してしまうことに恥ずかしさを感じないわけではありませんが。

長い間、「人が怖い」「人が信じられない」とする人生を生きてきた私にとって、「どんな私でも嫌われない」という相手は、無くてはならない心の支えです。

それが、我が親友。

彼女にだったら、どんなに暗くて深い心の闇もさらけ出せる。

そこにある信頼は、友情という言葉では語りきれない強さと確かさなのだと思っています。


ただ、ひとつ言いたいことは。

そんな関係性の構築には、「親」と「子供」の「子供」のように、ただ「親」から愛を与えてもらうばかりではなかった、ということです。

オトナになってから求める「安全基地」作りには、自分自身も相手を信用し、自己開示して頼っていく必要があると思うのです。

「人が怖い」「人が信じられない」といった心に闇を持つ私が、勇気を出して関わった結果、手に入れられた素晴らしいもの。

それが現在の、親友との関係性です。

ですから、「愛着不安」という障害を抱えて生きる上で、まずは自分自身が親との関係性の中で愛情をやり取りできなかったことを認めて受け入れ、「安全基地」となる存在を探していく。

それは、いくつになってもできる、遅くはない、と思うわけです。


そういう私も、相変わらず人は怖いですし、誰でもかれでも信用するわけではありません。

でも、社会に出て消耗する自分をエネルギーチャージできる場所=安全基地、があるという事実は、「人が怖い」「人が信じられない」など些細なこと、とさえ思えるもので。

劣等感の強い私の言動、私という存在を、親友は決して否定せず、常に肯定してくれます。

そんな、「どんな私でいても大丈夫」と思える存在が私にはいたんだ、と思えた先日……

仕事で失敗して凹んでいた私は、どこかに消えてしまいました(笑)



残念ながら、私のように愛着不安を抱えたままオトナになってしまった人は、今更親子関係をやり直せませんよね?

ですので、今からでも遅くない。

「なんでも話せる相手」を見つけることをオススメします。

もちろん、もともとが「人が怖い」「人が信じられない」といったベースでしょうから、簡単ではないはず。

それでも、チャレンジする価値はある、と私は思います。

「人に嫌われる原因」??「人に嫌われない」ために生きていませんか?

昨夜ネットで、とある占いサイトを見ていました。

ちょっと有名な占い師のサイトでした。

占い大好きな私はついつい見てしまうのですが、昨夜は見たことを後悔する結果になってしまったのです。


そこに書かれていたのは、「あなたが嫌われる原因」でした。

こういう切り口で書かれていると、読まずにいられなくなります。

そこで、何も考えず、うっかり見てしまった……

するとそこには、日頃から自覚している「痛い現実」が書かれていて。


「あぁ、やっぱりね。だろうね。だから私は嫌われるんだ。嫌われているんだ」と、落ち込み始めました。

こうなるともう、「じゃあ、どうしたらいいのか?」を考えずにはいられません。

「それは大問題だ。だから、問題解決を考えなきゃ。さぁ、どうしたらいいんだ?」

占いサイトに書かれていた「嫌われる原因」を何とかしないと、私は人に嫌われ続けて、一生幸せになれないかもしれない。

そう、これはまさに、「私の短所」と言えるもの。

私は悩み始めてしまい、結局、昨夜はろくに眠れないまま、今日は仕事に行くはめに……



私は考えました。

……でも。

短所は長所なんだよ。

短所と長所は表裏一体で、別物じゃあないんだよ。

だから、短所を克服しようとすると、長所まで無くなっちゃう。

うーーーーん。


今日は仕事も手につかず、夕食を作る気力もなくて、コンビニ弁当を買ってくる始末。

あーあ。

どうしてこうなっちゃうわけ?

あんな占いサイト、見なきゃよかった……

だいたいさぁ、ああいう書き方されると、私みたいに自己評価が低くて自分を責める人は、絶対に心が折れるよね?

占いってさ、人を幸せにするもんじゃないの?

なのに、凹ませてモチベーション下げてどうすんのよ?

……と、だんだん腹が立ってきたのです。


そしてついに、「自分らしさを殺してまで人に好かれなくてもいいわ。嫌ってくれて結構よ。どうせ私は嫌われ者よ!」と、口から言葉が出ていました(笑)



私は思いました。

「生きる」って、「人に嫌われない」ことを目的にしてるんじゃないでしょ?って。

「生きる」って、自分らしくして自分なりの幸せを手に入れることでしょ?って。



「人に嫌われないこと」を目的にしている人は、きっとどこかで自分を殺し、無理して人と関わっているのでありませんか?

自分の短所を克服しようと頑張りすぎて、自分がしたいことさえ見失ってしまっていませんか?

他人を軸にして生きることが習慣化すると、そこには自分は存在しません。

人間関係で苦しんでカウンセリングを受けてくださるお客様のほとんどが、こういった傾向をお持ちです。


でもね。

これだけは言わせてください。

短所を封印しようとすると、長所も消えちゃいますよ。

そして、自分を否定することは、幸せから遠ざかることです。


この世には、いろんな人がいて、だからそこには「相性」というものがある。

だから、自分の個性を「短所」だと見る人とは関わらずに、「長所」だと見てくれる人と関わればいい。



「人に嫌われないこと」を生きる目的にするなんて、私は嫌い。

短所は長所。

2つは表裏一体。

短所を嫌って遠ざけたり克服しようとする前に、いつもとは違う方向から自分を見る。

楽に生きたいなら、「人に嫌われないこと」のために生きるのをやめましょうよ。

そもそも、「人に嫌われる原因」なんてものが存在しなかったのに。

悩むことなかった(笑)

今年ももっと自分らしく。「自分らしさ」を許してストレスフリーな生活を!

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

正月とは言え、普段の生活とほとんど変わらない状態の私ですが。

母親のことを年末に片付けてしまったので、気持ち的にはとってもリラックスしています。

今年はマイペースを保ち、自分自身のための年にしたいものです。


昨日、ふと気づきました。

最近、動悸が無くなったなって。

去年の秋くらいから息苦しさを伴う動悸がひどかったのですが、今はすっかり大丈夫な状態。

人間関係のストレスで、よく眠れなかったせいだったのだと思います。

やはり睡眠は大事だなということが改めて分かったので、今年はしっかり眠れるよう、ストレス対策していきますよ~



同じ状態でいても、ストレスになる人とならない人がいます。

それは、その人の中にあるストレスセンサーの精度が高いから、ということも言えるのではないでしょうか?

例えば私は、匂いに敏感で、タバコの煙の臭いや、香水、芳香剤、アロマなどの香りで、片頭痛の発作を起こします。


ストレス耐性の低い人って、特定の物事に「過敏に反応してしまう」んですよね。

最近はそういう人を「人一倍敏感な人」= 「HSP」(ハイリー・センシティブ・パーソン)なんて心理学者が提唱したりしてますが。

だからといって病気っていうわけじゃなく、世の中には、平均よりちょっと敏感、平均よりちょっと鈍感、って人たちがいっぱいいるってことです。

なので、自分は人よりちょっと過敏に反応するタイプかも?と自覚があるなら、その自分を大切に扱うこと。


片頭痛を引き起こしてしまうほど匂いに敏感な私は、まず、喫煙所の近く、香水の強い人、芳香剤のきつい場所、などには近寄らないようにしています。

人間関係も同じことが言えますね。

ストレスを感じるような相手とは距離を置き、必要以上に関わらない、近づかないことが必要。

何にしろ、「選べるものは選ぶ」というスタイルでいることです。


自分で自分の身を守るための対策を講じることは、別に、人に迷惑を掛けることでも何でもない。

なのに、「他人からどう思われるか?」などを気にして、自分の身を守る対策を講じることができずにストレスを抱えてしまう人って多い気がします。



私は去年、様々な出来事の中で、様々なソウルメイト達と学び合って痛感したことは、

「自分らしさを許す」ことの必要性、重要性でした。

「自分らしさを許す」ということは、

「他人とは違う自分」に対し、

「それでもいいんだ。それもアリなんだ。OKなんだ」と、

「許可をする」ことです。


人にはできることができないなら、それが「自分らしさ」でしょうし、人にはできないことができるのも、「自分らしさ」でしょう。

匂いに敏感なのも、人の言葉で傷つきやすいのも、「自分らしさ」。

不器用で料理が下手なのも、体力なくてすぐに疲れるのも、他人のために頑張り過ぎてしまうのも、全部、「自分らしさ」。

その「自分らしさ」を許し、守っていくことが、ストレスを抱えないための一番の方法です。


生きにくさを感じている人は、この「自分らしさ」に許可できていないことが多い傾向です。

「自分らしさ」は、ひとつやふたつではありませんから、まずは許可しやすいことからひとつずつ、許可してみてはどうでしょう?



私も今年は、まだ許可していない「自分らしさ」を見つけ、許可をし、自分らしく生活する1年にしたい。

その過程を綴るこのブログを、今年も楽しく読んでいただけたら幸いです。