「楽に生きる」ために必要なたった一つのことは

楽に生きたかったら、他人を気にしないことです。

他人を軸にしない。

他人の評価を求めない。

それができたら、本当に楽に生きることができると思うのです。



今日は仕事がスムーズに行かず、少々凹みながら帰宅しました。

寝不足続きで朝からあくびが止まらなかったし、何となくダルくて、いつもの調子が出なかったことが原因でしょうね。

そんな今日は、久しぶりに息苦しさを感じたのですが。

やはり、ちょっとストレスを感じると息苦しくなるようです。

「あ、まただ。も~、どうして私はこうなっちゃうの?」

と、自問してみました。

今日の私の仕事は、出張で出かけた上司が、私のデスクの上に置いて行ったもの。

量的に、おそらく数時間で終わるでしょう、と考えていました。

ところが、集中力が無いというか、同じ個所を何度も間違えたりして、一向に先に進まない。

加えて、作業したデータが保存できないなど、いつもは考えられないようなトラブル続き。


…は~。

どうしちゃったのよ、私??

「困った」と思えば思うほど息苦しくなるし、耳鳴りもひどくなってくる。

そこで、再確認したのです。

『今日出張で出かけている上司に「サボっていた」と思われたくない自分』がいることに。


自分が出かけていたからサボっていた、と思われたらどうしよう?

人が見ていないとサボる奴なんだ、と思われたら困る。

気づいたら私は、「言い訳」で頭がいっぱいになっていました。

…今日は体調が悪かったと言おう。

…いや、そもそもデータを提出しないでおこうか?

など、どうやって言い訳しようか?ばかり考えていたのです。


今の私の職場で働くのは、雑談をする余裕もなく働く人たちです。

私も仕事以外のことは話しません。

大声で笑ったり雑談なんてとんでもない、って感じの雰囲気なんですよね。

なので、サボりたくてもサボれないのが現実。

なのに、毎日こなす業務量の半分もいかなかった今日は、「サボっていたと思われるに違いない」と怖くなってしまったのです。




改めて思いました。

私、まだまだ他人を軸にして生きてるな、と。

「人にどう思われるか?」を気にしている限り、ストレスからは解放されません。

自分には自分の事情があり、時には、今日の私のように調子が出ないこともある。

その度にいちいち人の目を気にしていたら、疲れちゃいますね。



楽に生きたいと思うなら、マイペースで生きることを自分に許すしかないのでは?

できないものはできない、失敗することもある、と、開き直るしかなさそうですよ。

「他人の目」が自分を窮屈にするものなら、それを気にしない、という結論です。

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「更年期」「太ってる」陰で笑われるのが怖くて汗が拭けなかった私

親しい人との会話の中で、「普通、○○だよね~」と言うことがあります。

ですが、その「普通」って何よ?と、思わず自問してしまう。

「普通」とは、おそらく「一般的に」という意味で使ってるのでしょうけど。




私は子供のころから人とはちょっとズレていたらしいので、この「普通」の枠からだいぶはみ出して生きてきたと思います。

それは、物事への意識や視点、思考や行動などですが、ここ最近は、体型や健康面での「人と違う」ことが問題になってきています。

「HSP(ハイリーセンシティブパーソン)」と言えるほどではないのでしょうけど、色んな事に「敏感」であることは間違いありません。

環境面や対人面でのストレスが自律神経を直撃し、すぐに体調不良になります。

そして、かなり太っていますから、標準体型の人には分からない問題も抱えがち。

そういうの今まで「恥」みたいに扱っていて、自分の「一般的じゃない部分」に対し、憎しみさえ抱いていました。

でもそれは、「人と違うことはいけないことだ」とした我が家の親たちの考えが原因でしょうけど。


我が家の親たちは、「普通」が好きな人たちでした。

ですので、良くも悪くも人より目立つことを嫌い、自分たちも、子供たちも、「普通」「一般的」「平均的」な枠の中で生きることを良しとしていたと思います。

しかし残念ながら、何かにつけて「普通じゃない」私ですから、親たちから嫌われたのは仕方ないでしょうね。



実は私、職場で困った状態が続いていたんです。

椅子の高さやパソコンモニターの高さが合わず、毎日腰痛や首痛で苦しんでいました。

私の職場は大部屋ですし、使っている椅子のメーカーも様々のようですから、探せば私に合う椅子が見つかるかもしれません。

なのに私は、今使っている椅子の高さやパソコンモニターの高さが合わないことを誰にも言えず、首や腰の痛みを自力で何とかしようとだけ、していたのです。

だって、「椅子の高さが合わないから違う椅子と交換してほしい」なんて言えない。

一般的な高さで作られているオフィスチェアだもの、そんなこと言ったら「私は太っているのでお尻の厚みの分、座高が高くなるんです」ってバレてしまう。


でも結局は腰痛首痛に耐えられなくなり、先日、違う椅子を探すことに。

椅子はすぐにちょうどいい高さのものを見つけ、快適になりました。

パソコンモニターの高さに関しては、隣の席の男性社員に話をしたところ、その会話を聞いていたのか、遠くの席の男性社員がパソコンモニターの下に敷くようにとお菓子の箱を持ってきてくれたのです。

これは嬉しかった。

「僕も座高高いので」と笑って言ってくれました。

あいにく、そのお菓子の箱は高さが合わずにお借りすることができませんでしたが、その男性社員の優しさを知ることができましたし、私と同じようにパソコンモニターの下にカタログなどを入れて高さ調整している人がいるという事実は、安心感を作ってくれますよね。



痛みで辛い、精神的に苦しいなど、自分の体や気持ちの事情やは、自分だけのものです。

他人はそんな自分のことなど分かるはずがない。

なので、他人に遠慮することなく、自分で自分の身を守る強さが必要だと思います。

最終的に自分に責任を負うのは、自分自身です。

最後まであてになるのは、自分自身だけ。


こんなことを書いている私ですが、「人にどう思われるか?」と他人の評価を気にしてばかりいて、「普通ではない、一般的ではない、平均的ではない自分」を隠そうとして生きてきました。

更年期症状や太っているせいで汗がダラダラ出ても、周囲の目が怖くて汗が拭けない。

「あの人、更年期だよね」「あの人、太ってるからだよね」と陰で笑われるのを想像してしまい、汗を拭くことができませんでした。

しかし、「困っているのは自分」であり、他人は私の「困っている」を何とかしてくれるわけじゃない。

だから今は、例え陰で笑われても、自分の事情を優先すべきだと思うようになりました。

「つーか、アタシが汗拭いたことで、アンタ達に何か迷惑かけた!?」くらいな気持ちで(笑)



「普通」「一般的」「平均的」の枠の中で生きることは、「安心」なのかもしれません。

「普通じゃない」ことが多い私は、少なくともそう思ってしまいます。

「人と違う」「ちょっと変わってる」って、正直、生きにくい。

でも、それが私なのだから仕方ない、と、受け入れていくしかないと思うのです。


本来ならば、「人と違う」=「個性」として扱われ、尊重されこそしても笑われるものではないはず。

ですが世の中には、それを「悪」だと見たり、笑ってバカにする人もいる。

だから、そういう人は相手にしない。

それこそ、「自分は自分」でいいと思います。

人と違う自分を許して、強くなりましょ。

「人が信じられない。人が怖い」愛着不安を抱えていた私は

あなたには、何でも話せる人がいますか?

心の支えとなる人がいますか?


先日、こんな本を買いました。

『愛着障害 子ども時代をひきずる人々』

精神科医の岡田尊司先生の著書です。

実はこれ、「自分の中の劣等感」からネットサーフィンしていて辿り着いたもの。

この本を読み、まるで私自身を主人公に書かれているような、「え?まさに私のことじゃん」といった感覚を得ました。


子供のころの私は、常に親から否定され、批判され、疎外されていた記憶しかありません。

親にとって私は、「理解できない。扱いにくい。好きではない」子供だったようです。

そのため、「自分らしさのままで生きると親に愛されない」と学んでしまった私。

年を重ねて成長はしたものの、親との間で学んでしまった「対人スキル」は、社会に出てもそのまま使うことになりました。

その結果、「人が信じられない」だけでなく、「人が怖い」と思うようになり、人といると常に緊張して消耗してしまうといった人生を送ってきたわけです。


ですが。

この本を読み、そんな風に生きてきた私にも、今は、ちゃんと私を受け止めてくれる存在がいたことを、改めて確認させてもらえました。

親との間で、うまく愛情のやり取りができなかった私に、親代わりとなって愛情と信頼を与えてくれる人がいる。

そういった存在を、この本では「安全基地」と表現しています。


50歳を過ぎ、こんなことをブログに書くのはどうだろうか?とか、ここまで自己開示してしまうことに恥ずかしさを感じないわけではありませんが。

長い間、「人が怖い」「人が信じられない」とする人生を生きてきた私にとって、「どんな私でも嫌われない」という相手は、無くてはならない心の支えです。

それが、我が親友。

彼女にだったら、どんなに暗くて深い心の闇もさらけ出せる。

そこにある信頼は、友情という言葉では語りきれない強さと確かさなのだと思っています。


ただ、ひとつ言いたいことは。

そんな関係性の構築には、「親」と「子供」の「子供」のように、ただ「親」から愛を与えてもらうばかりではなかった、ということです。

オトナになってから求める「安全基地」作りには、自分自身も相手を信用し、自己開示して頼っていく必要があると思うのです。

「人が怖い」「人が信じられない」といった心に闇を持つ私が、勇気を出して関わった結果、手に入れられた素晴らしいもの。

それが現在の、親友との関係性です。

ですから、「愛着不安」という障害を抱えて生きる上で、まずは自分自身が親との関係性の中で愛情をやり取りできなかったことを認めて受け入れ、「安全基地」となる存在を探していく。

それは、いくつになってもできる、遅くはない、と思うわけです。


そういう私も、相変わらず人は怖いですし、誰でもかれでも信用するわけではありません。

でも、社会に出て消耗する自分をエネルギーチャージできる場所=安全基地、があるという事実は、「人が怖い」「人が信じられない」など些細なこと、とさえ思えるもので。

劣等感の強い私の言動、私という存在を、親友は決して否定せず、常に肯定してくれます。

そんな、「どんな私でいても大丈夫」と思える存在が私にはいたんだ、と思えた先日……

仕事で失敗して凹んでいた私は、どこかに消えてしまいました(笑)



残念ながら、私のように愛着不安を抱えたままオトナになってしまった人は、今更親子関係をやり直せませんよね?

ですので、今からでも遅くない。

「なんでも話せる相手」を見つけることをオススメします。

もちろん、もともとが「人が怖い」「人が信じられない」といったベースでしょうから、簡単ではないはず。

それでも、チャレンジする価値はある、と私は思います。

「人に嫌われる原因」??「人に嫌われない」ために生きていませんか?

昨夜ネットで、とある占いサイトを見ていました。

ちょっと有名な占い師のサイトでした。

占い大好きな私はついつい見てしまうのですが、昨夜は見たことを後悔する結果になってしまったのです。


そこに書かれていたのは、「あなたが嫌われる原因」でした。

こういう切り口で書かれていると、読まずにいられなくなります。

そこで、何も考えず、うっかり見てしまった……

するとそこには、日頃から自覚している「痛い現実」が書かれていて。


「あぁ、やっぱりね。だろうね。だから私は嫌われるんだ。嫌われているんだ」と、落ち込み始めました。

こうなるともう、「じゃあ、どうしたらいいのか?」を考えずにはいられません。

「それは大問題だ。だから、問題解決を考えなきゃ。さぁ、どうしたらいいんだ?」

占いサイトに書かれていた「嫌われる原因」を何とかしないと、私は人に嫌われ続けて、一生幸せになれないかもしれない。

そう、これはまさに、「私の短所」と言えるもの。

私は悩み始めてしまい、結局、昨夜はろくに眠れないまま、今日は仕事に行くはめに……



私は考えました。

……でも。

短所は長所なんだよ。

短所と長所は表裏一体で、別物じゃあないんだよ。

だから、短所を克服しようとすると、長所まで無くなっちゃう。

うーーーーん。


今日は仕事も手につかず、夕食を作る気力もなくて、コンビニ弁当を買ってくる始末。

あーあ。

どうしてこうなっちゃうわけ?

あんな占いサイト、見なきゃよかった……

だいたいさぁ、ああいう書き方されると、私みたいに自己評価が低くて自分を責める人は、絶対に心が折れるよね?

占いってさ、人を幸せにするもんじゃないの?

なのに、凹ませてモチベーション下げてどうすんのよ?

……と、だんだん腹が立ってきたのです。


そしてついに、「自分らしさを殺してまで人に好かれなくてもいいわ。嫌ってくれて結構よ。どうせ私は嫌われ者よ!」と、口から言葉が出ていました(笑)



私は思いました。

「生きる」って、「人に嫌われない」ことを目的にしてるんじゃないでしょ?って。

「生きる」って、自分らしくして自分なりの幸せを手に入れることでしょ?って。



「人に嫌われないこと」を目的にしている人は、きっとどこかで自分を殺し、無理して人と関わっているのでありませんか?

自分の短所を克服しようと頑張りすぎて、自分がしたいことさえ見失ってしまっていませんか?

他人を軸にして生きることが習慣化すると、そこには自分は存在しません。

人間関係で苦しんでカウンセリングを受けてくださるお客様のほとんどが、こういった傾向をお持ちです。


でもね。

これだけは言わせてください。

短所を封印しようとすると、長所も消えちゃいますよ。

そして、自分を否定することは、幸せから遠ざかることです。


この世には、いろんな人がいて、だからそこには「相性」というものがある。

だから、自分の個性を「短所」だと見る人とは関わらずに、「長所」だと見てくれる人と関わればいい。



「人に嫌われないこと」を生きる目的にするなんて、私は嫌い。

短所は長所。

2つは表裏一体。

短所を嫌って遠ざけたり克服しようとする前に、いつもとは違う方向から自分を見る。

楽に生きたいなら、「人に嫌われないこと」のために生きるのをやめましょうよ。

そもそも、「人に嫌われる原因」なんてものが存在しなかったのに。

悩むことなかった(笑)

今年ももっと自分らしく。「自分らしさ」を許してストレスフリーな生活を!

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

正月とは言え、普段の生活とほとんど変わらない状態の私ですが。

母親のことを年末に片付けてしまったので、気持ち的にはとってもリラックスしています。

今年はマイペースを保ち、自分自身のための年にしたいものです。


昨日、ふと気づきました。

最近、動悸が無くなったなって。

去年の秋くらいから息苦しさを伴う動悸がひどかったのですが、今はすっかり大丈夫な状態。

人間関係のストレスで、よく眠れなかったせいだったのだと思います。

やはり睡眠は大事だなということが改めて分かったので、今年はしっかり眠れるよう、ストレス対策していきますよ~



同じ状態でいても、ストレスになる人とならない人がいます。

それは、その人の中にあるストレスセンサーの精度が高いから、ということも言えるのではないでしょうか?

例えば私は、匂いに敏感で、タバコの煙の臭いや、香水、芳香剤、アロマなどの香りで、片頭痛の発作を起こします。


ストレス耐性の低い人って、特定の物事に「過敏に反応してしまう」んですよね。

最近はそういう人を「人一倍敏感な人」= 「HSP」(ハイリー・センシティブ・パーソン)なんて心理学者が提唱したりしてますが。

だからといって病気っていうわけじゃなく、世の中には、平均よりちょっと敏感、平均よりちょっと鈍感、って人たちがいっぱいいるってことです。

なので、自分は人よりちょっと過敏に反応するタイプかも?と自覚があるなら、その自分を大切に扱うこと。


片頭痛を引き起こしてしまうほど匂いに敏感な私は、まず、喫煙所の近く、香水の強い人、芳香剤のきつい場所、などには近寄らないようにしています。

人間関係も同じことが言えますね。

ストレスを感じるような相手とは距離を置き、必要以上に関わらない、近づかないことが必要。

何にしろ、「選べるものは選ぶ」というスタイルでいることです。


自分で自分の身を守るための対策を講じることは、別に、人に迷惑を掛けることでも何でもない。

なのに、「他人からどう思われるか?」などを気にして、自分の身を守る対策を講じることができずにストレスを抱えてしまう人って多い気がします。



私は去年、様々な出来事の中で、様々なソウルメイト達と学び合って痛感したことは、

「自分らしさを許す」ことの必要性、重要性でした。

「自分らしさを許す」ということは、

「他人とは違う自分」に対し、

「それでもいいんだ。それもアリなんだ。OKなんだ」と、

「許可をする」ことです。


人にはできることができないなら、それが「自分らしさ」でしょうし、人にはできないことができるのも、「自分らしさ」でしょう。

匂いに敏感なのも、人の言葉で傷つきやすいのも、「自分らしさ」。

不器用で料理が下手なのも、体力なくてすぐに疲れるのも、他人のために頑張り過ぎてしまうのも、全部、「自分らしさ」。

その「自分らしさ」を許し、守っていくことが、ストレスを抱えないための一番の方法です。


生きにくさを感じている人は、この「自分らしさ」に許可できていないことが多い傾向です。

「自分らしさ」は、ひとつやふたつではありませんから、まずは許可しやすいことからひとつずつ、許可してみてはどうでしょう?



私も今年は、まだ許可していない「自分らしさ」を見つけ、許可をし、自分らしく生活する1年にしたい。

その過程を綴るこのブログを、今年も楽しく読んでいただけたら幸いです。

ひとつ終わり、ひとつ始まる。ひとつ手放し、ひとつ前に進む。

今年も今日で終わりですね。

1年間、お疲れ様でした、と、自分に言ってあげたいところです。

2018年の最終日の今朝、私は1年の集大成とも言えるコミットメントをしました。

ここ数か月の自分の身に起こったこと、それに対しての自分のレスポンスを考え、自分が手放さないとならないことがハッキリしたので。


私は幼少期に、親から、自分が望む形での愛情がもらえませんでした。

その影響で、大人になってから、親からもらえなかった愛情の代わりを周囲に求める傾向です。

でも、そういう生き方は正しくない、不毛な行為なのだと理解できるようになりました。

ですが、人として生まれ、生きて、人から愛されたい、好かれたい、認められたい、求められたい、という欲求が消えたわけではありません。

それゆえ、迷走しては消耗するといった繰り返しをしているのだと思います。


相手と時間を共有し、その中で相手を知り、それが分かり合えない関係だと分かった時、私は傷つきます。

どんなに慕っても自分が想うほど相手からは想われないのだと分かった時、生きている価値などないのではないか?とさえ考えたりします。

けれども、「個性」というものは全ての人に存在するもので、それによる「相性」の良し悪しもまた存在するのです。

例え親子であっても、価値観の合わない者同士は上手くいかない。


そして、悲しいのは、自分の価値観と違う相手を、否定し、批判し、疎外しようとすること。

人間関係のトラブルは、こんな感じの原因から始まる気がします。

「価値観の違いを、どうするか?」

これが人間関係の課題なのでしょうね。


私は今朝、今まで関わっていた相手としばらく距離を置く覚悟を決めました。

価値観の溝が埋められず、これ以上一緒にいると争って傷つけあう結果にもなりかねないと判断したからです。



今年も、様々な出会いがあり、様々な別れがありました。

「どうして私は、人のと関係や物事が長続きしないんだろう?」

以前はそう自問してばかりいましたが、その理由も今になれば分かります。

私にとって、出逢って関わる人は、みんな、その時の学びを共有するソウルメイト。

ですから、学びが終われば速やかに解散、といった流れになるのだと思うのです。


「現状維持は、実は下降」と教えてくれた人がいますが、その通りだと思う事が最近多くて。

「上昇」を求めて生きるためには、「変化」は必要不可欠なものではないでしょうか?

なので、2018年の最後の最後に、ひとつの執着を手放し、「現状維持」ではなく「一歩前へ進む」ことを決めたのでした。


ひとつ終われば、ひとつ始まるでしょう。

人間は、執着を手放すごとに前に進む。

手放したものが大きければ大きいほど、次に手に入るものは、手放したもの以上の大きさのものだと思います。


時間は流れています。

動いています。

ですから、その流れに逆らわず、自分も変化を受け入れて生きる。

辛いことも悲しいことも、楽しいことも嬉しいことも、全部、その変化の流れの中にあります。

自分と向き合い、流れを止めている執着、心の枷となっている縛りに気づき、ひとつひとつ手放し、枷を外していく。

来年もこの作業を続けていくことを自分自身にコミットメントした、2018年の最終日。



とにかくとにかく、1年間、一生懸命に生きた自分に、「お疲れ様」を。

みなさまも、よいお年をお迎えくださいませ。

【生きるのが辛い貴女の心に届ける 心の「枷」を外す鍵】

ブログのタイトルを変えました。

「私にしかできないこと」「私だからできること」に、気づいたからです。

ここ最近のブログネタは、仕事やお金、人間関係のことばかり。

そして、そこには「怒り」や「不満」や「不安」が存在するだけでなく、「悪意」さえも伴うネガティブなものでした。

それらのネガティブなものを作っていたのが、自分が子供の時から使ってきた処世術にあることに改めて気づき、タイトル変更に至ったのです。



私は家族の中では「異質」な存在で、親たちから理解されず、認められず、受け入れられずに育ってきた人間です。

親たちにとっては、「扱いにくい子供」でしかなかったのでしょうね。

父親は私を暴力によって支配しようとし、母親は自分に起こる都合の悪いことを「厄病神」だとして私のせいにし続けてきました。

ですから、家には、私の居場所はありませんでした。

でも、親から愛されたい、寂しかった子供の私は、親の前で私なりの処世術を使うようになったのです。

それは、「自分を殺して相手に迎合すること」でした。

親に好かれるためには、「私」という存在を殺す必要があった。

「親にとって都合のいい子供」「親の期待に応えることができる子供」になれば、親から愛される子供になれると思っていたのです。


そしてその身についた処世術は、社会に出てもフル活用。

どこに行っても居場所がない。

誰からも理解されない、疎外される。

それは、社会に出ても変わらなかったからです。


ですが、家でも社会でも、処世術を使う裏で「殺された自分」が黙ってはいない。

「本当の自分を表現できない不満」は「怒りの炎」となって、自分でもコントロールできないほどの烈しさで周囲を焼き尽くす。

そして、焼野原となった事後を見て、私は、自分が失ったものの大きさに驚き、傷つき、自分を責める。

そんな繰り返しをしてきた人生でした。


しかし、うつ病を病んだことで、自分の人生と正面から向き合うことに……

その結果、「生きるのが辛くて苦しいのはなぜか?」が、ハッキリしたのです。

それは、「親に愛されたかった子供の私」が選んだ処世術のせい。

「自分を殺して相手に迎合する」という行為の副作用。


ですが、一度身に着けてしまった処世術は「習慣」となり、そう簡単には直すことができないことも、また現実なのです。

ですから私は、自らを実験体として扱い、この悪しき習慣を断ち切ることを目指しています。

そして、「自分を殺す」のではなく、「自分を大切にする」ことができる人間になる。

自分を殺さなくても、社会で生きていけるんだ。

そのままの自分、自然体の自分でも生きていけるんだ。

そう、身を持って気づける日が来るまで、この挑戦は続けます。



まだ完全体ではありませんが、今まで得てきた知識や知恵を、メンタルケアの仕事を通じ、また、こうしてブログを通じて、私と同じように「辛くて苦しい人生を生きている人」を応援するために使いたいと思います。

そして、少しでも先を歩けるよう、日々を出来事を、気づきと学びに変えていきたいと考えています。



生きるのが辛くて苦しい人たちは、心に「枷」をはめています。

自分で自分を縛り、自由を奪い、絶望を多く感じるでしょう。

でもそれは、あなたのせいではない。


私の経験が、私の知識が、私の言葉が、誰かの心の「枷」を外す『鍵』となれますよう、今後もブログを綴ります。

心の「枷」を外す鍵を手に入れて「自分らしい人生」へのスタートがサポートできることが、何よりの喜びです。