自分がそうだと人もそうだと思ってしまうことが原因

「え?それって私だけだったのっ!?」と気づいてショック受けたことってありませんか?

私は先日、大きな気づきがありました。

それは、私の未来が私の過去の延長線上ではなくなったかのような、大事なターニングポイントにもなったことです。


私は、「人から自分がどう思われているか?」を気にする傾向です。

もちろん、ネガティブな意味で。

自意識過剰、と言えばそうなんでしょうけど、いわゆる「人の目が怖い」のでした。


実は先日、ここ最近のあまりにも酷い不眠を何とかしたくて、病院を受診したのです。

そこで自律神経失調症を軽減させるための漢方薬を処方してもらいました。

が、この漢方薬、朝昼晩の食前に飲むんですよね。

なので、会社でも飲まないとならない。

ですが私は、「漢方薬を飲むために給湯室に行く」ことをためらってしまうのでした。

それだけではないのです。

トイレに行くのも、考えてしまうんです。


それを先日、親友に話すと、「ダメだよ。体に必要なことなんだから、薬もトイレも遠慮しなくていいんだよ」と言われたのですが…

こういったことを電話で親友と話していて、私は自分の行動のルーツ、原因が分かったのでした。

私は、職場の人たちから「サボっている」と思われたくないのです。

デスクワーク、しかもパソコン作業が100%に近い私ですから、「席を立つ」ことがほとんどありません。

だからなのか、「席を立つ」ことに、ちょっとした抵抗を感じてしまう。

でも、この問題には、もっと深い場所に、この意識の理由があったのです。


親友は私のことを、よく周囲のことを「観察している」と言いました。

「観察」という言葉が自分自身を表現している言葉だとは、その時まで全く気づきもしなかったことで。

けど、その通りなのです。

私は、「人間ウオッチング」が好きだったのですもん。

電話で親友に、先日に会って食事した際の親友の服装を、靴からカバンまで全部言いました。

すると親友は、「えー!?そんなとこまで見てるの!?」と驚いていて。

…そうなんですよね。

私、けっこう見ちゃいます(笑)

というよりも、物事に対して「視覚を使う」ことが最も多いのではないでしょうか。


親友はバイオリンを習っていますが、発表会などのための暗譜は、「音」で覚えるそうです。

それに対して私は、ピアノや歌の暗譜は、頭で「楽譜をスキャンする」ようなスタイル。

そういった私の物事を「視覚で認識する」傾向が、「人もそうだ」と思い込んでいたこと=問題の原因だったことが分かったのです。


物事をよく見ている私は、「人もそうだから、私も人に見られている」と思っていた。

だから「人の目」を気にして、トイレに立つこともためらう状態だったのでした。

私にとって「人にどう思われるか?」は「人にどう見られているか?」であり、見られた結果として悪い評価をされることを恐れていたんですね。

でも親友は、言いました。

「物事を観察するのは緋呂子さんの特徴で、他の人はそんなことしないよ」って。

もちろん、なかには私のようなタイプもいるらしいのですが、そういうタイプはホントに少数なんだと。

そして、「緋呂子さんは人や物事に興味を持ってるけど、他の人はそこまで興味を持っていない」とも言われました。


私の親友は常に髪をキレイに巻いていますが、それも「自己満足」が理由なのだそうです。

巻いた髪を人からどう思われるか?ではなく、単に巻き髪が好きなのでしょう。


こんなことがあったことで私は、ようやく、大きな荷物を降ろすことができたようなスッキリ感を味わいました。

そして何より、「自分のモノサシと人のモノサシは違う」ことがよく分かりました。

自分が使っている言葉が標準語ではなくて方言だった、というのを知った時の衝撃?に近い感じ。

「え?それって、私だけだったのっ!?」って。


自分と他人は、同じではない。

なので、他人のモノサシで自分を測ることもしなくていい。

「人は人、自分は自分」

「それでいい」、のではなくて、「それが当たり前」、なのですね。

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「今は逃げてもいい」自分に許可をする勇気を持って

これは、とある知人の話です。

派遣社員として働く彼女は、某企業での事務募集の話があり、面接に行ったそうです。

が、実際に面接に行ってみると、派遣会社の営業マンから聞かされていた話とだいぶ違う。

そこで彼女は、説明を受けた業務内容などについても、なんとなく不信感や不安を感じたそうです。

ですが、すでに無職無収入になっていた彼女にとって、今までになく高い時給や、家から近いなどの条件面は大きなメリットでした。

そこで、不信感や不安を抱えたまま、働き始めることになったのですが……

その不信感や不安は、見事に的中。

仕事内容は「事務」という話だったのに、実際にした仕事は、自社製品の目視検品だったのです。

しかも、それなりの理由あってのことでしょうが、飲み物も自由に摂れない、昼休憩はあるものの、それ以外の休憩は3時に10分間のみ、と、今まで経験したことのない厳しさだったとのこと。

近視のためコンタクトレンズ使用の彼女にとって、目視検品は辛く、初日から痛みを感じるほど目を酷使することに。

泣きたい気持ちを抱えながら、彼女は思っていたそうです。

「いつになったら、事務仕事をさせてもらえるのだろう?」と。

が、そんな日は永遠に来ないことを、数日後になって知らされることになったのでした。

結局、その彼女がその派遣先で働いたのは、一週間にも満たない、ほんの数日。

でも、彼女、言っていました。

「面接の時に、あれ?何かおかしいな、と思ったのに、断ることができなかった」と。

事務だけでなく、自分が習得している専門性を活かして働けると聞かされていたらしいのですが、実際彼女が行った仕事は、何の知識もスキルも必要としない検品作業。

作業現場に入るまでに断るチャンスはいくらでもあったはずなのに、彼女が手放せなかったものは、「お金(賃金)」への執着だったと言います。


これはあくまでも私個人の意見ですが、この派遣先がブラック企業っぽかったとか、派遣会社がポンコツだったとか、そういうことではなく、これは彼女への教材として与えられたものだと思うのです。

直前の記事にも書きましたが、相手を変えることはできません。

自分が変わるしかないのです。

ここで彼女に必要だったのは、「かけがえのない自分という世界で最も大切なもの」に気づく、ということではないでしょうか?

もちろん、退社を決意した彼女は、「お金より大切なものに気づいた」と話してくれましたよ。



私もそうですが、お金のために働くのではない、と分かっているつもりでも、現実として、生きていくにはお金が必要です。

ですので、時には、自分自身や家族を犠牲にしても、お金(仕事、会社)を優先することもありますよね。

でも、ここぞ、という時に、「逃げる勇気」「撤収する勇気」って、必要でしょ?

そこで逃げ遅れると大変なことになってしまう、って、多々ある。


私は去年働いていた派遣先で「お金」と引き換えにしたものは、1年以上経った今もなお治らない耳鳴りです。

毎日、朝から晩まで、耳鳴りがしています。

こんなことになるなら、ちょっと体調が悪くなった時に辞めておけばよかった…と思いますが。

もう、今更どうにもならないこと。

こうなってみてはじめて、健康、普通に生活できる普通の体、と引き換えにできるものって何もないって、ようやく私にもわかりました。


もし今、体調を崩すほどのストレスを抱えているなら、「逃げてもいいんだよ」と自分に許可をしてほしい。

今は逃げよう。

でもまた、体制を整え、出直せばいい。

健康を失ってからでは、その「出直し」も難しくなりますから。

自分で「被害者」「犠牲者」の役割をを選んでいませんか?

知人Aさんは、認知症の夫の介護をしている専業主婦。

すでに年金暮らしであり、夫婦合わせた年金額は老後を生きるに困らない金額。

でもAさんは、夫を自宅で在宅介護しているのです。

先日Aさんから、「緋呂子さんの体験した在宅介護の大変さを味わっている」とメールが来ました。

まぁ、私も、認知症の母親を看ていた1人ですが、このコメントを読んでもピンと来るものは無かったのでした。

Aさんとはたまにメールをやり取りしますが、食事やお茶に誘われても、その気になれないんですよね。

だって、おそらく話すことって、介護の愚痴や夫への文句で終わりそうなんだもの。


昨日、ちょっとした用事でメールをやり取りしたら、Aさんから「痴呆老人に振り回されて返信が遅くなってしまった」というようなコメントが来たのです。


これを読んだ時、私は思いました。

え?でも、それを選んでいるのは、あなたでしょ?

と。


もちろん、その家その家、その人なりに、他人には分からない事情があると思います。

しかし、施設に入れるだけの十分な経済力がありながら、なぜ在宅介護を選んだのか?

それもまた、Aさんの事情ですが。



私は、そこで思ったのです。

自分でその苦労を選んでおきながら、「辛い、苦しい」と訴えるのって、ちょっと変じゃないの?

Aさんは認知症の夫に、「施設には入らない。お前に在宅介護してほしい」と頼まれたのだろうか?

または、誰かや何かに、「あなたが在宅介護しなければいけない」と言われたのだろうか?


そういう私も、Aさんと何ら変わらない、自ら選んで親の介護を引き受け、「辛い、苦しい」と訴えていました。

その時の私の頭にあったのは、「結婚して子供もいる妹とは違い、私は独身で、長女で、ましてや親と同居しているのだから、私が母親を看るのは当たり前」という意識でした。

しかし、認知症が重くなるにつれ、母親と関わることは本当にキツくなり、自分ばかりが貧乏くじをひいているかのような気持ちに。

辛い。

でも、逃げられない。

だって私は、長女で、結婚もしてなくて、子供もいなくて、実家暮らしで。

だから、私が看るのが当たり前でしょ。


知人Aさんが、この時の私と同じ意識でいるかどうかは知りません。

ですが、この「介護する側」という「役割」は、自分の意思で「放棄」することができるのですよ。

誰にも裁かれず、責められずに、辞めることができるものなのです。

不思議なことに、「もう、被害者をやめよう。犠牲になることをやめよう」と決めた時から、運気の流れが変わります。

なぜならそれは、「自分自身を大切にする」ための決意だからです。

「自分自身を大切にする」ことを、許さない人やものがあるでしょうか?



私の親友は、ガンになってしまった父親を在宅看護し、数か月後に看取りました。

その間彼女は、一言も愚痴らず、ただただ父親のために、自分ができることを考えて動いていたのです。

病院に入院させるのではなく、自宅で世話をしてあげたいと、彼女は在宅看護を選んだ。

自分の意思で選んだから、愚痴や文句が出なかったのでしょうね。


今になって思えば、私自身、誰に頼まれたわけでもないのに自ら親の介護を買って出て、「辛い、苦しい」と嘆いていた愚か者だったな、と。



私たちは、自分が選び取った人生を生きています。

ですから、「なぜこんな目に遭うの?」と嘆くことはおかしなこと。

「辛い、苦しい」とする生き方を、選ばなければいいのです。

被害者にならない、犠牲者にならない人生を生きる権利は、ちゃんと平等に与えられていますから。

私は人の期待に応えないことが怖い「イエスマン」でした

私事ですが、今、職場で少々問題を抱えています。

情報開示には限界があるので詳細は書けませんが。


まぁ、派遣社員として働く私が自分自身で考えている業務内容と、派遣先で要求される業務内容が違うことが原因です。

派遣元には、自分のスキルを伝えてありますし、派遣先での面接の際も伝えました。

でも、いざ現場に入って働いてみると、あれもこれもと次から次へと要求があり、クビになりたくない私は、それらを全て受け入れる形になっていました。


自分の中に「派遣先での要求を受け入れないとクビになる」「相手の期待に応えないといけない」とする気持ちがあり、とにかく、「物分りのいい、できる人材」として振る舞うことに精一杯だったのです。

ですが、そんな付け焼刃のような仮面は、あっという間にはがれることに。


自分のスキル以上の業務を請け負うことは、ストレス・負担なんてものではなかったのです。

先日、仕事中に、息苦しさと動悸、頭痛が一気に来て、座っていることが精一杯の状態になりました。

このまま椅子から落ちて倒れてしまうのではないか?と思ったくらいでした。

それが夕方だったため、そこは何とか持ちこたえて、次の日は休んで病院を受診。

ここ最近、息苦しさと動悸がひどかったため、循環器内科へ行ったのですが、そこで検査もした結果、心臓には特に問題ないとのこと。

「精神的なものでしょう」という診断を受け、スッキリしないまま帰路についたのですが。


これまで何回か、派遣先の社員や上司には話をしてきましたが、それらはすべて、「どうしたらクビにならずに済むか?」という気持ちからのものであり、今の自分自身の状態を打ち明けることはしませんでした。

「要求される仕事ができない」=「期待に応えることができない」となると、間違いなくクビになる。

そうなれば無収入ですから、クビになることだけは絶対に許せなかった。


しかし、体調はどんどん悪くなる一方で、週末に書いていたブログも先週は書けず、ついには自律神経失調症で体温調整が上手くいかなくなったのか、寒くて眠れないといった事態に陥ってしまいました。

そこでもう、腹をくくり、派遣元に連絡して現状を伝え、「要求されている仕事は自分のスキルを越えているので、できない」と、派遣先に伝えてもらえるようにお願いしたのでした。


それが先週の木曜日のこと。

正直、怖かったです。

今も、怖くて怖くて、昨日も今日も寝込んでしまいました。

何も手につかず、食料の買い出しにも行けず、家事もできません。



私は、「イエスマン」をやめたのです。

だから、その結果どうなるか?その影響が怖くて、引きこもっている。

「できない」と相手に伝えることがこんなに怖いことだとは知りませんでした。

「できない」と派遣元に言おう、と決めた前の晩は、布団に入ってからひどい悪寒と動悸に襲われましたし。

「恐怖」というものを感覚で知り、本当に辛かったです。

でも、「イエスマン」をやめないと、どこまでも健康を害してしまう。


それに、派遣社員には何の保障もありませんから、健康を害して働けなくなったらアウトです。

働く場所は、他にもあるでしょう。

でも、働く自分自身には、スペアがありません。



私がなぜ「イエスマン」としてしか生きて来られなかったか?

それは、子供のころの親との関係性に原因がありました。

私の父親は、自分の言う事をきかない私に殴る蹴るの暴力を振るいましたし、母親は、「厄病神」と罵っては無視する、疎外する、という人でしたから。

親の「イエスマン」でいなければ、ひどい目に遭う。

私の「イエスマン」のルーツなんて、たったそれだけのことでした。

「NO」を言えば、報復される。

反旗を翻したと受け取られ、攻撃される。

だから、親の言う事をきく、「物分りのいい子」であれば、攻撃されない。

そもそも嫌われていて大事に扱かってもらったことなどありませんが、暴力を含めた攻撃は勘弁してほしい。

たったそれだけのことが、50歳を過ぎてもなお、影響し続けている、というわけです。


「イエスマン」をやめることは、怖いことですね。

相手に攻撃されるリスクもありますから。

でも、私にはもう、ガマンができませんでした。

明日、仕事に行けば、結果が出るでしょう。

「イエスマン」をやめたことで攻撃されるなら、喜んでクビになろう、と今は思っています。

「悪いのはどちら?」自分のネガティブな感情エネルギーの方向性を変えてみる

あなたは、自分のネガティブな感情エネルギーを「自分」に向けることが多いですか?

それとも、「他者」に向けることが多いですか?



先日のことです。

仕事でちょっとした失敗があり、私はいつもの「落ち込みモード」へ入りかけてしまいました。

入ったばかりの職場で、慣れない仕事、慣れない人間関係。

なので、今までの自分のスキルが通用しないことは仕方ないでしょう。

でも、「だから私はダメなんだ」と、失敗した自分を責めるのが私の癖。

もうそうなると、あとはどんどんネガティブな方に考え始めてしまう。

「仕事を失敗した」→「仕事ができないと思われる」→「クビになる」

という「悪い方向」へ進む考え方に歯止めがかからず、「クビになったらどうしよう?」と、頭を抱えていたのでした。


冷静になって考えてみれば、元々は、取るに足らない些細な失敗です。

いや、失敗とも言えない、普通に「間違えた」程度のものでしょう。

なのに私は、「社員から指摘された」→「注意された」→「失敗」とする意識が働き、すっかり「落ち込みモード」に入りかけたのです。



私はこうして、「ちょっとした出来事」から「落ち込みモード」に入り、「自分を責める」ことが多い。

そして、その結果も自分に悪い方へ考えるため、気持ちが動揺し、体調も悪くなる傾向。


けれども今回、「ちょっと待て」と、「落ち込みモード」に入りかけた自分にストップをかけました。

……ちょっと待って。

これって、ホントに私が悪いのかな?

「できない」とか「覚えられない」とかって自分を責める前に、あの人(某社員)の教え方はどうなのよ?

と、自問し始めたのです。



メンタルカウンセリングをしていて、クライアントさんがうまく自分を表現できないことは多々あります。

それ、当たり前ですよ。

自分の悩み、心の中という、デリケートな部分で形のないものに関して、うまく喋れる人なんてわずかなんです。

それを初めて会う他人に打ち明けるのですもん、緊張だってするし、言葉だって選ぶでしょう。

なので私たちメンタルケアをする側は「質問屋」になり、クライアントさんが自分のことを喋れるようにリードする。

そういう、人に対する思いやりや、仕事に対するスキルって、必要だと思いました。



長く派遣社員で働いてきた私は、「受け入れる側にも問題がある」と考えています。

ですから、ちょっとした失敗を自分のせいにして落ち込んで自分を責めることを、今回はやめてみたのです。

自分の中にある、「私はダメ人間だ」という意識や、ネガティブな感情。

それらが、「自分自身」に向けて攻撃を開始する。

その結果、ひどく落ち込み、考え始め、夜は眠れない⇒自律神経失調症。

この方向を変えていかないと、私はいつまで経っても自律神経失調症のままだ、と思ったわけです。


そこでこの時は、自分に向ける攻撃を、他人に向けてみました。

「入ったばかりの派遣社員なのだから、何年もいる社員みたいに仕事ができるわけないでしょ?なのに、なんなの?その言い方は。だいたいね、教え方が悪いんだわ。もっとちゃんと教えてくれないから覚えられないのよ」って。

いつもいつも「悪いのは私」でしたが、この時は「悪いのはあの人」にしてみたのです。

すると、そこには「怒り」があることに気づきました。

……そっかぁ。

「自分を責める」って、「ちゃんとできない自分」に、自分が怒って攻撃するってことだよね。

そういうことかぁ。

私は今まで、自分に対して怒っていたんだ。


愚かでした。

自分で自分に腹を立てて怒ったところで、何か解決するでしょうか?

もちろん、他人に腹を立てて怒っても同じことでしょうけど、そこでちょっと違うのは、気持ちが他人に向くと、その気持ちに気づきやすいということ。

自分の内側に向く意識や気持ちは気づきにくいですが、自分の外側に向くものは、気づきやすいです。

そして、「あぁ、私は怒っているんだ」と気づくと、なぜか不思議と気持ちは収まってきます。


私も「私のせいじゃない」と人に責任転嫁したせいで、今までとは全く違う意識の方向性ができました。

「相手が悪い」→「(相手は)おバカさんだから仕方ない」って思えたら、怒りは消えました(笑)


私は何かにつけて、「自分が悪い」と自分自身を裁いて責める傾向です。

人のせいにすることは悪いことだ、と思っています。

でも、相手がある時って、「自分だけが悪い」というケースって、少ないような気がするのですよ。

ケンカって、売る側がいて買う側がいるから、ケンカになるわけでしょ?



常に相手を裁いて相手を責める傾向がある人は、ちょっとだけ自分を責めてみるのもいいと思います。

そうして、いつもの自分の思考パターンの逆をしてみると、意外な気づきがあるってこと。


大事なのは、「問題」の「解決」です。

解決のない問題をいつまでもグルグルクヨクヨと考えているよりも、ちゃっちゃと解決して先に進める問題へと変えてしまえばいい。

気持ちを切り替えるって、そういうことかもしれませんね。

負けるな、私。負けるな、派遣社員。マウンティングや悪意に負けない精神力を。

私事ですが、今月からライスワークの派遣の仕事に行き始め、やっと半月経ちました。

ちょっとグッタリです(笑)

今日明日は近所のスーパーに行くくらいしか元気がないかな~って感じ。

環境も仕事も人間関係も、何もかも新しいので、けっこうしんどい。

で、何が一番しんどいか?って、そりゃやっぱり人間関係でしょ。

30代半ばから派遣社員という働き方しかしてこなかった私ですが、どこの職場に行っても感じることは、「マウンティングされる」ということ。

もちろん、本人たちはそんなつもりなど全く無いのだと思いますが。


入ったばかりの私を遠巻きに見ていた職場の人たちも、お互いの存在に慣れてきたこともあり、今週は少し踏み込んで関わるようになりました。

そうなると、その人の人間性がよく見えてきます。

正直言って、「仕事はできるかもしれないけど、人間的には最低レベルだな」と思うような人もいて。

そういう相手に接しては消耗してしまう自分を何とか立て直し、頑張って出勤していました。


思うのですが。

マウンティングしたい気持ちも分かります。

だって、派遣社員相手くらいにしか、威張れないでしょ?(笑)


劣等感がある人ほど、自分より弱いと思われる立場の人にマウンティングして優越感を感じたがる。

でもね、昨日もちょっと思ったのですが、そうやって上から威張って言ってくることが、その企業だけにしか通用しないローカルルールだってこともあるんです。

その職場で長く働いている人ほど、世間を知らないのかもしれない。

自分の言ってることが世間の常識かのように思い込み、外の世界から来た派遣社員などに偉そうに発言する。


私は、どこへ行っても「この程度のこと、知らないの?」というような扱いを多々受けますが、実際、じゃあ、そう言ってくるその人って他所で通用するのかな?と思ってしまいます。

狭い社内の中だけのルールだとも知らず、入ったばかりの派遣社員に偉そうに説明したり説教したりって、恥ずかしいですよ?



それに去年の派遣先では、こんなことがありました。

上司が、パソコンソフトの調子が悪くなったと言い出し、「緋呂子さんが入ってきてからこういう状態になるようになった」と私を責めたのです。

そう言われても私には全く身に覚えのないことでしたが、私のせいではないとも言えなかったので、黙っているしかありませんでした。

すると、その後数回同じようなトラブルがあり、その度に上司は私を責める発言をしたのですが。

でも、私だって悔しかったんですよ。

一方的に犯人呼ばわりされて。

なので、トラブルが起こった日時を調べていたんです。

そしたら、やっぱり。

その上司が使った後に限ってパソコンがトラブっていたことが分かったのです。

私はそこで自分の無実が分かったため、その件について発言するようなことはしませんでしたが。


昨日は、この件を思い出させるようなことがあったのです。

社員のある人に、自分が指示したこと、作業したことなどはすっかり忘れたのか、まるで私が無知で間違えたかのような言われ方をされました。

でも、どこへ行っても派遣先社員は、外から来た派遣社員にミスを押し付けて責任転嫁する傾向なので、私は反論もしなかった。


当然ながら、そういう人ばかりではないですけど。

今回の派遣先でも、何度同じことを聞いても嫌な顔せずに、親切丁寧に笑顔で教えてくれる社員はたくさんいます。


ですから私は、一部の残念な社員たちに振り回されずに、精神的に強くなろうと決めたのです。

自らに劣等感があり、他人にマウンティングすることで優越感を感じたい人、また、自分のミスを責任転嫁しようとする人など。

いずれにしろ、自分自身と向き合うことのできない、心が狭くてキャパが無い、気の毒な人たちであることは間違いないでしょう。


ただ、社員側にも言い分があり、派遣社員という働き方に偏見を持っている人もいます。

私自身も、「立場的に職場でモノが言えない分、辞めるしか権利がない」と思っていましたから、「派遣社員は辞める=無責任」だと思われるのも仕方ないかと。


でも、辞めずに解決できるよう、自分自身を変えるしかないと思いました。

立場は弱くても、自分自身が弱いわけではない。

なので、自分自身の「弱気な気持ち」を捨て、理不尽なマウンティングや悪意に負けないことです。

時に図々しく、強かに、精神的に強くならないと。

気持ちで負けていたら、何事も上手くいかない気がしますから。

心に縛りがあると「自分が喜ぶこと」にお金を使うことができません

あなたは、「自分が喜ぶこと」にお金が使えますか?

「自分が喜ぶこと」にお金を使うことに、罪悪感がありませんか?


日頃から自分に制限をすることが多い人は、「自分が喜ぶこと」に上手くお金が使えません。

例えば、素敵なレストランで食事したいと思っていても、「ダメダメ。外食なんてお金がもったいない」などと考えていると、「自分が喜ぶこと」から遠ざかってしまいます。


時に、「自分が喜ぶこと」は、ちょっぴり「贅沢」なことかもしれませんね。

特別な時だけの「ご褒美」的なものかもしれませんし。

しかし、「自分が喜ぶこと」を知っていながら、あれこれと理由をつけては「与えない」となると、それは明らかに「欲求不満」の領域に入っていく気がします。


「自分が喜ぶこと」は「ガマン」という「縛り」で遠ざける。

まぁ、「理想」と「現実」はいつだってギャップがあるものでしょうけど。



これは私のことですが。

去年の5月に、ライスワークである派遣の仕事を辞めてから、すっかり貧乏になっていました。

食べていくだけで精一杯な状況でしたので、生活の中の「必要なもの」しか買えなかった。

しかも、派遣で働いて収入があったころに買っていたものからレベルを落とし、金額的に安いものを選んで買っていました。

もちろん、ストレスの程度に応じて「自分にご褒美」は与えていたつもりですが、そのレベルも必要最低限で。


私は本来、浪費家です。

物欲が強く、買い物が大好き。

ですが、親の年金で細々と生活する日々は、そういった自分の欲求を殺す日々でした。

ですが今回、また派遣の仕事を紹介してもらって働くことができているので、一昨日、思い切ってバッグを買ったのです。

たぶん、バッグを新調するなんて、何年ぶりのこと。

新しいもの好きな私なのに、お財布ももう何年前に買ったのか思い出せないくらい使っていますし。

生活必需品ではないものは、買えませんでした。

でも本当は、バッグも財布も靴も化粧品も買うのが大好きで、ブランドものも大好き。

(バブル時代が懐かしい~・笑)


えぇ、ですから、買いました(笑)

ネットじゃなくて、百貨店で(笑)

しかも、2つ(笑)

1つは以前から欲しかったもので、もう1つは一目惚れで衝動買いですね。

それでも、数年ぶりにバッグを買ったからか、一目惚れを買えたからか、驚くほど気分が上がるのを感じました。

嬉しくて嬉しくて、帰宅して商品の包装を解き、見てはニヤニヤしていましたよ。


私も思います。

そうは言っても、お金が無きゃ、物も買えないって。

だから、毎月の収入が安定する仕事に就かなければ、いつまで経ってもバッグなんて買えなかったって。

でもね、いいじゃない。

バッグくらい買ったって。

自分のためにお金使ったって、いいじゃない。

生活必需品じゃなくても、いいじゃない。

なんだかそんな、開き直りに似た思いが私を支配していました。

去年は特に親のことにお金がかかり、自分のことは何から何まで後回しだった気がします。

でも今年は、自分のためにお金と時間を使いたい。

そんな気持ちを形にしたことが、バッグの購入となったわけですが。



「お金がもったいない」からと、欲しいものも買わず、「自分が喜ぶこと」にお金を使わないことも選択肢の一つではあると思います。

もともと倹約家だったり、お金を使うことに興味がない人もいるでしょう。

しかし、生活の経済的な事情と言った「現実的な縛り」でなく、「心の縛り」のせいで「自分が喜ぶこと」にお金が使えないとしたら?

それは自分がかわいそうだな、と思います。

と言うより私はいつも、「私って(親の)犠牲になるばかりで、かわいそうな人間だな」と思っていました。

そして、その不満は「怒り」となり「憎しみ」となって、そのネガティブな感情は親に向いていたと思っています。



「自分が喜ぶこと」「自分のモチベーションがあがること」に、お金を使いませんか?

バッグを買った私は、「よし!このバッグを持って出勤して、仕事頑張ろう!」と思えましたから。

今年に入ってから働き始めたので、まだお給料を1度もいただいていないんですよ(笑)

なのに買い物してしまった大胆さも、私の個性の中の側面ですから、まぁ、いいでしょう(笑)


自分ためにお金を使う、「自分が喜ぶこと」にお金を使うことは、必要な自己投資だと思います。

気分上げて生活するために、自己投資を惜しまないことをオススメしたいです。