私の中の愛すべき「怠け者ちゃん」

私事ですが、先週あたりから、自律神経がだいぶ落ち着いてきたことを感じています。

晩秋から冬に入り、気温が下がったことも理由かと思うのですが、やはり、数々抱えていたストレスが少しずつ減っていったことが、一番の理由でしょうね。


今朝、改めて思いました。

私は、「休む」ことが苦手だと。


「休む」の代表である「睡眠」の質が悪く、「眠れていない」ことが全ての体調不良の源のようです。

先週か、先々週か、夕飯を食べてすぐに寝てしまったことがありました。

そして、夜中2時くらいに起きて、また寝て、結局、翌日の昼すぎまで寝てしまったのですが、この後、体調がすこぶる良いことに気づいた私。



私は俗に言う「ロングスリーパー」です。

1日9時間以上は寝ます。

ところが、メンタルにダメージを受けると、眠れなくなってしまう。

その結果、自律神経系をやられて調子が悪くなる。


これは、そうなる原因が自分で分かっているので、常に自分の課題にもなっていることです。

原因は、「働かざる者食うべからず」とする、我が家の親たちの言葉の「呪縛」。

言葉を理解できるようになったころから、繰り返し繰り返し言われ続け、刷り込まれた、「親たちの価値観」でした。

それが私を縛り、苦しめている。



今朝もふと思ったのです。

「仕事していないからって、こんな時間まで寝てたらダメだよね」って。

一昨日の木曜日は地域の可燃ゴミ収集日でしたが、私は10時近くまで寝てしまい、ゴミ出しに間に合いませんでした。

その時の罪悪感ったら。

私ってどんだけダメ人間なのよ?と、玄関に置きっぱなしにしたゴミ袋を見て大反省。



「仕事に行っても行かなくても、朝は早く起きなきゃ!」

そう思うのです。

「でないと、体内時計が狂って昼夜逆転生活になっちゃうし、仕事に行き始めたら大変だもの」って。


「朝遅くまで寝ている」=「だらしない生活」といった意識が、「明日こそちゃんと起きなきゃ!」というプレッシャーになる。

が、翌朝は目覚まし時計を止めて二度寝してしまい、やっぱり9時くらいまで寝てしまうのでした。



今朝、そんなことを考えていたら、頭の中に、「黒い点」が見えたのです。

(実際に目で見たのではなく、イメージワークの中で、です)

その黒い点をズームしてよくよく見ると、柱のようなものの陰でこちらを見ながら涙目でブルブル震えている、全身真っ黒の二頭身の子でした(笑)

その黒い子が言うんですよ。

「怒らないで。怠けてるって、怒らないで」って。


……あ。

これだ。

この子が、今、私が救うべき「自分自身」なんだ。

そう直感しました。


この黒い子のお名前は、「怠け者ちゃん」です。

今朝も9時過ぎまで寝てしまったので、この子が「怒らないで」と懇願している。

……そうだった。

私は自分に、「働かざる者食うべからず」とする親の価値観で生きることを強いてきた。

だから、「怠け者ちゃん」が生まれた。


寝てばかりいる、休んでばかりいる、ダメな自分をイメージの中で形にしたものが、「怠け者ちゃん」なのです。

私は自分自身に、「休む」ことを許可していない。

「休む」ことは「怠ける」ことだと思っているから。


私たちにとって「睡眠」は必要なものであり、「休む」という行為も大切なものだと、頭では分かっているのです。

でも、頭では分かっていても、心で許していない。

理解はできていても、許可はできていない。



「何もしない日」「ただ寝るだけの日」「好きなことをして過ごす日」など、自分自身を労って癒す日を、意識して作らないとダメな人って、いますよね?

私もその一人ですが(苦笑)

それもおかしな話だと思います。

そう決めないと自分に許可できないなんて。


私にとって睡眠は、必要だから、その時間まで寝てしまうのだと思うのです。

ストレスによって常に興奮している脳を休めるためには、長く眠らないとダメなんだってことかな?と。


だから、私の中の「怠け者ちゃん」が、柱の陰でブルブル震えながら涙目で「怒らないで」と懇願しないで済むようにしたいな、と思った今朝。

しっかり動く、しっかり働くためには、しっかり寝て、しっかり休むことが大事ですもんね。

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悪口や愚痴を誰に話すか?が問題

私は、生きていれば誰かの悪口を言いたい時もあるし、不平不満を愚痴りたい時もあって当然だと思っています。

ですので、悪口言いたい時には言えばいいし、愚痴大会開催も賛成です。

ですが問題は、

言いたい悪口を、誰に言うか?

愚痴大会のメンバーをどうするか?

だと思うのです。



例えば、職場の中に、ストレスの元となる人(Aさん)がいたとします。

そのAさんのの悪口を、同じ職場の人(Bさん)に言いました。

BさんもAさんのことを良く思っていなければ悪口は言いやすく、悪口大会は盛り上がるでしょう。

ガールズトークの基本は「共感」ですから、「分かる分かる~!」って。

でも、この悪口大会は、非常に危険なのです。



かなり前のことですが、とある派遣先で、女子社員数名が1つのテーブルに集まってランチしながら、ある派遣社員の女子(Cさん)の悪口を言っていたことがありました。

私はそこのテーブルに同席していて、Cさんの話題で盛り上がる女子社員たちの話に混ざっていたわけですが。

半月ほど経ったある日、派遣先の上司に呼ばれました。

そしてそこで「君は同じ派遣元から来ているCさんの悪口を言って歩いているようだけど。職場の風紀を乱すので次の契約更新はしないから」と言われたのです。

…は?何それ?

私は、「言い出したのは私ではないし、私はそこまで言っていません」と抗議しました。

ですが、「私は君が最初に言いだしたと聞いているが、じゃあ、最初に言いだしたのは誰?」と訊かれ、私はそこで女子社員たちの名前を出すことができなかった。

だって、私もその場に居たのは事実だし、Cさんの悪口だと取られるような言い方をしたかもしれない。

女子社員たちの話に混ざっておきながら、「でも私は悪口を言っていません」など、上司は信用しないでしょう。

なので、契約満了日を待たずに、私はその派遣先を辞めざるを得なくなりました。


私はこの時の上司からされた「青天の霹靂」的な話のフラれ方を、忘れることができないのです。

どこでどう話が食い違い、どういう経過でどういうルートで派遣先の上司の耳に入ったのか?

さっぱり分かりません。

でも、「その場に居ただけ」でも「共犯」になり、酷い時には「首謀者扱い」までされるのだと、痛い思いをして学んだ出来事でした。

と言いながら、似たようなミス、失敗を繰り返しては、「全然学べていないじゃん」と自分を責めながら生きてきたことも現実ではあります。


そこでここ数年は、「共犯」「首謀者」などという不名誉なレッテルを貼られないために、私は、自分の中にルールを作りました。

それは、その職場、そのコミュニティの中では、そこに属している人の悪口を、そこに属している人や、その近しい関係者に言わないことです。


うっかり喋ってしまった悪口や愚痴が、どこでどう、どんな風に伝わっていくか分かりません。

ですので、誰かの悪口や愚痴を言う時には、「その関係者とは接点のない人に言う」ことを徹底する。

そして、できれば、「口が堅い人」であり、他の人に言わないと信用できる人ですね。


私の親友は県外在住であり、私が悪口を言いたくなるような人とは接点がありませんから、私は遠慮なく悪口を聞いてもらえます。

私だけではなく、親友も、自分の周辺で起こることへの愚痴や不満を話してくれます。

でも私にとっては全く知らない人たちの話なので、他人事として聞き流すことができるわけです。



悪口や愚痴は、言ってもいいんですよ。

その代わり、自分の身の安全を確保すること。

「誰に言うか?」には、くれぐれもご注意を。

「いえいえ、私なんてこの程度でいいんです」って豊かさの受け取り拒否

少し前、某派遣会社からあったお話は、時給1.100円の仕事でした。

そして、その少し後にまた別の派遣会社からあったお話は、時給1.500円の仕事でした。

私はこの時、気づいたのです。

「時給1.500円の仕事なんて、恐れ多くてエントリーできない」と思っている自分に。


「時給1.100円の仕事」は、その業務内容からすると「安いな」と思うような金額でしたが、私はなぜかそこで、ホッとする自分がいることに気づきました。

……おかしいぞ。だって、お金欲しいはずなのに、どうして時給1.100円でホッとするんだ?

そう思えた私は、そこで自分と向き合って考えたのです。



すると私の中に「時給1.100円もらえるくらいでちょうどいい自分」がいたことが発覚。

「少々お安め時給」が、自分には「お似合い」なのだと。


「時給に見合った仕事ができない」と、派遣先から酷評されることが怖い。

「時給1.500円なんてもらう価値が、私にはない」

自己評価の低さや、人からどう思われるか?を気にした結果、私は無意識で「受け取る上限を決めてしまっていた」のです。

「時給1.500円あげますよ」と相手は言ってくれているにも関わらず、「いえいえ、とんでもない。私なんて1.500円もいただけるような価値はないんです」とお断りする。


どうでしょうか?

私は、自分がいつまで経っても貧乏な理由が、分かりました(笑)

だって、自ら「受け取り口」にフタして閉めてしまってたのですから。

棚ぼた的なラッキーだけでなく、自分がいただいてもいいお金まで拒否していたことになります。


これ、仕事のことばかりじゃないですよね。

恋愛や結婚だって、「ちょっとダメ男くらいが私にはお似合い」なーんて思ってるから、いつまで経っても「ちょっとダメ男」としか付き合えない。


「望むこと」は許されるでしょ?

実際のところ、時給1.500円の仕事には行けないかもしれません。

現実として、様々な妥協も必要になるでしょうし。

でも、最初から自分の「上限」を決めて、「受け取り口」にフタしてしまうことはないですよね。


「私にはそれを受け取る価値がある」なーんて小難しく考えず、

回転寿司で自分の好みのネタが回ってきた時と同じように、「来た来た~♪ GET!」って感じで手に取ればいい。

回転寿司で、「私にはマグロを食べる価値などない」なんて考え込まないですもんね(笑)

「あの人、マグロ食べてるよ」なんて、誰かが白い目で見るわけじゃないし(笑)


私はこのことに気づき、今後は自分の「受け取り口」をオープンにしておくことにしました。

「私ってどうせ、この程度の人間だから」もクソもへったくれもなく、ただ、「開けておけばいい」だけ。


自分に欲しいものがあることを、自分に許す。

お金いっぱいもらえる会社に入りたい、イケメン彼氏欲しい、などなど、「望む」のはタダですもん。

自分で「豊かさ」を望んでおきながら、「いえいえ、必要ありません」のように「受け取り拒否」しているって、おかしな話ですよね。

「お金」を使ってマウンティングしてくる人って怖い!

私の母親は認知症で、現在、某施設に入っています。

2年間精神病院に入院していましたが、今年の夏に退院し、今いる施設に入ったのですが。

でも、ここの施設も、今月には出る予定になりました。

それは、9月に入って2ヶ月しか経っていないのに、先月、問題が発生したからです。

結果的に言うと、とある問題をきっかけに、長女であり母親の全ての責任を負う立場にある私が、その施設を信用できなくなったから。


「退所したい」と施設側に申し出てから、数回、施設長と話をしました。

するとその中で施設長が数回繰り返したのが、「料金の安さ」についてでした。

正直言って、そこの施設を選んだ理由は、「料金の安さ」です。

精神病院が用意した「老人ホーム紹介センター」なる怪しい人たちが仲介した、こちらの予算にマッチングした施設というわけで。

ですが、料金の安さを優先したので、我が家からは遠くて不便さを感じていたのも事実でした。


今回、そこの施設長の「うちは安いでしょ?」という物言いに、なぜかイラッとしていた私。

つまり言いたいことは、「お宅の予算内で収まるのはうちの施設くらいだ」ってことかしら?

「料金的に問題がありますか?」のような言われ方もしました。

でもね、私は私の「イラッと」の理由が分かったのです。


安かろうと高かろうと、料金を決めたのは、施設側です。

私は「安くしてください」とお願いしたわけではありません。

料金とこちらの予算がマッチングしたから選んだだけのこと。

なのに、「安いでしょ?」と、その料金の安さを言葉にしてくるのは、おかしいと思いました。


この施設に見学に行った時、そこで働く施設長の次に偉い人?が、こんな風なことを言ったのです。

「(入居者たちが)もっと美味いものを食べさせろって、ウナギを食べたいとか言ってくるけど、1日××円の食事代で何言ってるんだ?って思う」って。

これを聞いた私は、「うわー。すごい上からな言い方だな~。しかも、これからここへ入ろうってお客さん(私)の前でそれを言うかな~」って思いました。

それに、そんなことを言うなら食事代値上げすればいいのに、とも思いましたよ。

やはり今になってみて、この時に感じた違和感を大事にすべきだったと後悔しています。

ここの施設は、「料金の安さ」を売りにしているのでしょうけど、同時に、「安くしてやっている」という意識が見え見えなのです。


勘違いしないでほしい。

こちらには「安くしてもらっている」などの意識はなく、施設側が提示する金額を支払っているだけのこと。

ですので、そこを恩着せがましく言われた気がして、イラっとしたわけです。


捻くれたものの見方かもしれませんが、私の母親のような認知症や、家族に面倒を看てもらえない高齢者など、社会的弱者とも言える人たちが入る施設では、「人助けをしている」という表側の顔の裏側に、そういう人たちの生活をサポートすることによって満足させるネガティブな顔を持っている人も存在します。

「上から目線でいたい」と思う人には、「自分より下にいてくれる存在」が必要でしょ?

先生には生徒、親には子供、というように、その存在を作るために必要となる「対の存在」がありますから。



「お金」というものは、人間の上下関係を作る上で、とても便利なもの。

「お金を持っている方が上」のような勘違いをさせるのも仕方ないでしょうね。

「お金」を使ってマウンティングしてくる人は、少なくないのかもしれません。

マウンティングとは、「自分が優位であることを示そうとするコミュニケーション」とありました。

おサルさんが他のおサルさんに背乗りするやつですね。

料金を安くするのは、売り手側の勝手です。

それは商売として、メリットがあるからそうしているのではないですか?

「お客さんのために安くしている」と言いながら、「安くしてやっているんだ」とお客さんを下に見るネガティブな意識で商売しているなんて、怖いな~と思いましたよ。

でも、バーゲンセールは大好きですよ(笑)

お安くしてください♪

仕事(職場)とは、辛くて苦しい「罰ゲーム」のような「学びの場」?

セルフセラピーカード No.24 「無意味感」


私は自分自身のためにもカードを使っていますが、ここ数日、このカードが連続で出ていました。

「無意味感」

これはシンプルにそのまま、「私のしていることには意味がない」とするメッセージです。

正直、ここ数日はなんとなくモチベーションが落ちていて、就活もユルめでした。

なので、このカードが出た意味を自分なりに考えてみたところ、思い当たることがあったのですよ。

それは、私が「職場(仕事)」に対して持っているイメージ、決めつけのようなものでした。


先日ふと、こんなことが頭をよぎったのです。

「どうせまた、学びの場なんだろうな」

それは私の中にある、「私にとっての仕事(職場)はお金を稼ぐためのものじゃなくて、その時に必要な学びを得る場所なんだ」といった意識です。


そもそも私には、「お金は苦労して稼ぐもの」的な意識が根付いていて、その意識が「楽をしてはいけない」といった「縛り」を作っていたのでした。

そこには私の「達成感が好き」といった部分も影響していたのでしょう。

こういったことが意識の根っこにある私には、

「仕事」=「お金を稼ぐ」=「生活を豊かにする」というようなポジティブな方向性はなく、

「仕事」=「学び」=「辛い。悩み苦しむ」といったネガティブな方向性しかなかった。

さらに、人間は「失敗からしか学べない」のだから「学ぶためには失敗ありき」……という意識が存在していた。


このことに気づいた私は、ショックでした。

自分の中にこんな意識があれば、就活なんてモチベーション上がらないよね?と。

「お金を稼げる場所」としてではなく「学びを得る場所」として職場(仕事)を選んでいたのですから、そこには「ストレスがいっぱい!」が当然でしょうね。

げ~。

これはダメだ。

この意識を書き換えないと、私はまた「ストレスがいっぱい!」の職場(仕事)を引き寄せてしまう。



ではなぜ私の中に、こんな意識が根付いてしまったのか?

それは、「親からの刷り込み」です。

我が家の親たちは、仕事に対して、「金は苦労して稼ぐものだ。楽して稼ごうと思うな」と言い続けていましたから。

労働力の対価として得る賃金よりも、「賃金を得るために頑張ったこと」の方を評価する人たちでしたね。

そんな親たちからの刷り込みのせいで、私の中には「親の価値観」が居座り続けていたわけで。

このブログのタイトルにある「心の枷」というものが、まさにこれです。


私たちが頑張れるのは、頑張った先に自分の欲しいもの、「ご褒美」的なものがあるからですよね?

就活の先にはお金を稼ぐことができる職場(仕事)があり、婚活の先には共に生きることができるパートナーがいる。

受験勉強頑張るのも、ダイエット頑張るのも、その先に「自分の欲しいもの」があるからです。

しかし、私の場合それが、職場(仕事)という名の、一歩間違うと「罰ゲーム」のような学びの場……

そんなもの、誰も欲しくないでしょ?

ですので、「無意味感」なんてカードが連チャンで出たわけですね。



未来に、ポジティブな目標=「希望」が無ければ、人間は生きる意味を見失う気がします。

モチベーションの有無は、この「希望」に関係しているわけですから、自分の意識の先をどこへ接続するか?が問題ではないでしょうか?


私は今回、自分自身のネガティブな意識を書き換えることにしました。

「仕事」=「お金を稼ぐ」=「生活を豊かにする」に。


現実として、仕事は努力やガマンを伴うものです。

でも、その先には、自分が欲しいポジティブなものがあるのだという意識を持てば、「辛くて苦しい罰ゲームのような学びの場」にはならないのですね。

道はひとつではない?生きるためには状況対応&妥協もアリ

もうずいぶんと前の話ですが、当時の友達に言われたことがありました。

「環境に適応できるものが生き残るんだよ」って。



私は状況対応が苦手です。

心の柔軟性も低いので、問題解決のための創意工夫も不得意なのでしょう。

ワンパターン、うまくできても2パターン程度の持ち駒しかなく、それも「白か、黒か」ですから……


「その状況に応じて自分を変える」

これがわりと得意な人と、不得意な人がいます。

私は後者です。

でも、これも意識して自分を変える努力により、カバーできる部分も少なくないと思うのです。


例えば、料理。

「カレーには絶対に豚肉!」ってワンパターンを決め込んでいると、「あっ、豚肉を買い忘れた!」などのアクシデントにパニくってしまいがち。

けど、「肉は無くてもいいか~」「ハム有るからハム入れちゃうか~」など、柔軟に対応できたら、パニックにはなりにくいでしょう。

「カレーには絶対に豚肉!」というように、「道はこれしかない!」とする「決めつけ」があると、生きることが苦しくなりやすいです。

ですので時には柔軟に、いつもの自分のやり方を諦めたり、別のもので代用するなどの工夫をしたりして、いつもの自分と違う選択をすることをオススメいたします。

そういうのを「妥協」なんて言い方もしますよね。


もちろん、「こだわり」として「カレーには絶対に豚肉!」という方は、それはそれで全く問題ありませんが(笑)


私は今日、朝から部屋の模様替えをしていました。

なぜって、パソコン部屋が寒い!

でも、電気ストーブ代をケチりたい(笑)

しかし、夏は涼しくて、パソコン画面に光が映りこまない北側の部屋が、最も作業がしやすかったのです。

が。 結局、お金のために、「妥協」しました(笑)

暖かい南側の和室にパソコンを移動させることにし、そのためにいくつもの家具を移動。

冬の間は、ここでパソコン作業することにします。

部屋を移動しても使えるノートパソコンがあれば、何も問題無いのですがね~

電気ストーブ代さえもケチっているので、ノートパソコンなんて尚更買えません(笑)


「道はひとつしかない」という生き方には、当然、メリットとデメリットが存在します。

ですから、私の当時の友達の言葉のように、「生き残るため」には、その場に応じた柔軟な対応、自分を変える覚悟も必要です。

仕事や職場、コミュニティの中などでは、ある程度の「妥協」は仕方ないな、と。

自分の中の優先順位の低いものから手放していくと、いいと思います。

【生きるのが辛い貴女の心に届ける 心の「枷」を外す鍵】

ブログのタイトルを変えました。

「私にしかできないこと」「私だからできること」に、気づいたからです。

ここ最近のブログネタは、仕事やお金、人間関係のことばかり。

そして、そこには「怒り」や「不満」や「不安」が存在するだけでなく、「悪意」さえも伴うネガティブなものでした。

それらのネガティブなものを作っていたのが、自分が子供の時から使ってきた処世術にあることに改めて気づき、タイトル変更に至ったのです。



私は家族の中では「異質」な存在で、親たちから理解されず、認められず、受け入れられずに育ってきた人間です。

親たちにとっては、「扱いにくい子供」でしかなかったのでしょうね。

父親は私を暴力によって支配しようとし、母親は自分に起こる都合の悪いことを「厄病神」だとして私のせいにし続けてきました。

ですから、家には、私の居場所はありませんでした。

でも、親から愛されたい、寂しかった子供の私は、親の前で私なりの処世術を使うようになったのです。

それは、「自分を殺して相手に迎合すること」でした。

親に好かれるためには、「私」という存在を殺す必要があった。

「親にとって都合のいい子供」「親の期待に応えることができる子供」になれば、親から愛される子供になれると思っていたのです。


そしてその身についた処世術は、社会に出てもフル活用。

どこに行っても居場所がない。

誰からも理解されない、疎外される。

それは、社会に出ても変わらなかったからです。


ですが、家でも社会でも、処世術を使う裏で「殺された自分」が黙ってはいない。

「本当の自分を表現できない不満」は「怒りの炎」となって、自分でもコントロールできないほどの烈しさで周囲を焼き尽くす。

そして、焼野原となった事後を見て、私は、自分が失ったものの大きさに驚き、傷つき、自分を責める。

そんな繰り返しをしてきた人生でした。


しかし、うつ病を病んだことで、自分の人生と正面から向き合うことに……

その結果、「生きるのが辛くて苦しいのはなぜか?」が、ハッキリしたのです。

それは、「親に愛されたかった子供の私」が選んだ処世術のせい。

「自分を殺して相手に迎合する」という行為の副作用。


ですが、一度身に着けてしまった処世術は「習慣」となり、そう簡単には直すことができないことも、また現実なのです。

ですから私は、自らを実験体として扱い、この悪しき習慣を断ち切ることを目指しています。

そして、「自分を殺す」のではなく、「自分を大切にする」ことができる人間になる。

自分を殺さなくても、社会で生きていけるんだ。

そのままの自分、自然体の自分でも生きていけるんだ。

そう、身を持って気づける日が来るまで、この挑戦は続けます。



まだ完全体ではありませんが、今まで得てきた知識や知恵を、メンタルケアの仕事を通じ、また、こうしてブログを通じて、私と同じように「辛くて苦しい人生を生きている人」を応援するために使いたいと思います。

そして、少しでも先を歩けるよう、日々を出来事を、気づきと学びに変えていきたいと考えています。



生きるのが辛くて苦しい人たちは、心に「枷」をはめています。

自分で自分を縛り、自由を奪い、絶望を多く感じるでしょう。

でもそれは、あなたのせいではない。


私の経験が、私の知識が、私の言葉が、誰かの心の「枷」を外す『鍵』となれますよう、今後もブログを綴ります。

心の「枷」を外す鍵を手に入れて「自分らしい人生」へのスタートがサポートできることが、何よりの喜びです。